米国人の軍人ボクサーとして1987年11月に八戸帝拳ジムからプロデビューしたリック吉村。


1990年1月、プロ9戦目には日本スーパーライト級タイトルマッチで王者の山本義広(ヨネクラ)を判定で破りタイトル獲得。

このタイトルは2度防衛したが、3度目の防衛戦で、勇利、ナザロフと一緒にソ連から来日したスラフ・ヤノフスキーに判定で破れ王座陥落。

ちなみに、このヤノフスキーはソウル五輪の金メダルであった。


その後、リック吉村は八戸帝拳ジムから石川ジムに移籍し、一階級下げてライト級を主戦場に。

ヤノフスキー戦から2年後、リック吉村は西沢誠(新日本カスガ)をKOして日本タイトル二階級制覇。

このタイトルは初防衛戦で坂本博之(角海老宝石)にKO負けして王座陥落。


坂本博之は王座を返上し、それを同門の前田宏行が獲得し、初防衛戦の相手がリック吉村となった。

リック吉村は前田宏行を判定で破り、再び日本タイトルを奪取。

このタイトルは5年間で22度の防衛し、二度と破られない防衛記録を打ち立てた。

防衛戦の相手も濃い。

新井久雄、前田宏行、カズ有沢、東悟、木村登勇、湯場忠志、嶋田雄大、大嶋宏成、と。


いくら防衛しても米国人のリック吉村に世界挑戦を機会は訪れず、そんな最中、世界王者の畑山隆則への世界挑戦が決まる。


2001年2月17日、王者畑山は25歳、対してリック吉村は36歳。

年齢で全てを判断する訳ではないが、如何にもリック吉村は全盛期を過ぎていた。

だが、リック吉村は奮闘する。

長らく日本タイトルを防衛してきた王者のボクシング、とでも言おうか。

軽いフットワーク、左ジャブで畑山を突き放す。

中々、リック吉村との距離を詰められない畑山。

何とか打ち合いたい畑山であるが、接近するとリック吉村は巧みなクリンチで畑山の攻撃を分断。

8回、終了時点でジャッジ3者がリック吉村をポイントリードとし、リック吉村の勝利は目前となった。


だが、9回、リック吉村のクリンチに対して畑山が抗議すると、レフリーはリック吉村にホールドの減点。

確かに、リック吉村のクリンチは強引さもあったが、減点は…。

それで気落ちしたのか、リック吉村はクリンチを止めて、終盤は畑山の土俵で打ち合った。

打ち合いは畑山が強い。


ここでポイントを失ったリック吉村。


結果は三者三様の引き分け。


最初で最後の世界戦で悔やまれる引き分け。


その後、佐竹政一(明石)の東洋太平洋スーパーライト級タイトルに挑戦も判定負け、長嶋健吾(古河)にも破れ38歳で引退した。


47戦38勝(20KO)7敗2分