ん。
妄想。嘘。
最近うその世界にいるのが好き。そのほうが楽やしずっと寝て夢をみてたい。ずーっと青空で気持ちいい日を送りたい。
でもうその世界でもほんまの世界でも核心となっている事実がある。それがあるだけで幸せだ。
ん。
妄想。嘘。
最近うその世界にいるのが好き。そのほうが楽やしずっと寝て夢をみてたい。ずーっと青空で気持ちいい日を送りたい。
でもうその世界でもほんまの世界でも核心となっている事実がある。それがあるだけで幸せだ。
苦手な人なんかいーひん、なんて思っていたのは3、4年前までだ。きっと自分のことをよくわかっていなかったためだろう。
留学なんかをすると自分と向き合ったり自分を異国の地での態度に見てしまったりする。勉学のこと意外でいうと、留学は私にとって自分の心を裏返しにして他のものに映して見る貴重な期間だった。未開地に行ってはじめて本当の自分の好みや性質、傾向などが見えた。それは今まで自分で思っていたものと違ったし決して周りに私のような人物がいたら好きになるようなタイプでもなかった。広いと思っていた心はわりと狭いところもあったし、強気だと思っていたのに弱気だったりした。別にノートにとったわけじゃないしその時々の発見をいちいち覚えていない。でも今から振り返るとそんな感じだ。私は思っていた私とは違った。
自分でさえこんななのに他人のことなんてわかるのだろうか?複雑すぎる。いや、でもわりと自分を発見するより簡単なのかもしれない。だって「自分が自分を何かに映して見る」、いわゆる「鏡に映す」行動を省けるのだ。鏡に映すかわりに私の目でその人を見るのだ。・・・となるとやはりその人が発しているものは私の尺度でしか解釈できないということか。ふむ、そうなると自分探しも他人探しも結局は私のものの捕らえ方に左右されるんや。そして多分「ものの捕らえ方」っていうのは今までの経験とか環境で形成されていくんやろうな。
なんか思ったよりつまらない結論に達してしまった。私は結構「~~~はそれまでの経験や環境によって異なります」っていう説明が嫌いだ。何でかわからないし根拠もないけれど、偉い心理学者が言う経験とか環境との関係グラフを越えた神秘的パワーが関わっているような気がするから。ってかそう信じたいから。
こんなことを考えながら夜は更けていくのであった。
「かもめ食堂」、アルバム、電話 ・・など。
ふぅ。こうして日々ほんまに四六時中考えているのだ。身動きがとれぬもどかしさ。仕事を辞めれば簡単に一緒にいることもできるのだろう。
しかしそれはしたくない。何でこういう境地に立たされたとき私は勇気100%振り絞って体裁も気にせず将来も考えず飛び出していけぬのじゃろう。
結局は私はすごく現実主義者なのだろう。いつも空想の世界にいて夢はでかくプライドも高くおまけに自信過剰なくせに結局現実的なのだ。まぁそんな自分が好きになってそんな自分を好きになってくれる人がいるから幸せなのだけれど。
いつになったら一緒に暮らせるのだろうか。仕事もある、夢もある、故郷もあり家族の世話もあるだろう。どんだけ考えてもわからんのやろうけど。今までもきっと「どうなるんやろう」ってそのときの状況で考えてたんやろうけど結局今は今でこうやしな。考えてもわからん場合は・・ただ突き進むしかないんか。
現実主義者の愛における現実は相手を想うこの気持ちなのだ。現実主義者らしくこの現実を見つめて明日も生きていこう。