詳しくは2年姉とワンルームで同居し、最後の1年は一人暮らしをしていた。
相模大野という街に住んでいた。
姉の短大に近かった。私はそこから渋谷まで毎日学校へ通っていた。
姉は某大学のサークルに入り、絵に描いたように遊びまくっている女子大生だった。
姉はいわゆるザルで、いつもべろんべろんになって帰ってきた。
駅前の噴水に飛び込んだり、西田ひかるの等身大パネルを持ち帰ったり、近所の文房具屋の看板を持ち帰ったり、まあとにかくひどかった。
当時私の苦手な分野の「大学へ行ったけど遊んでばかりいる、親が金持ちのお坊ちゃん」のサークルの男子を夜中に何人も連れて帰り、私は夜中いきなり水をかけられて起こされたり、好きでもない初対面の男に0距離で髪をなでられるとか迷惑しかなかった。だから、酔っ払いが今でも嫌いだ。
なので、最後の一人暮らしの1年が超楽しくて、強烈に覚えている。
当時長い片思いからの大失恋をした私は、出会い系の雑誌かなんかで男の子と出会った。
苗字は覚えてるのだけど、名前がでてこない。誕生日と血液型と出身地は覚えてる。町田に住んでいた。
私としては珍しい、同じ年の男の子だった。
色白の濃ゆい顔だった気がするが、顔もぼんやりだ。ただ、笑うと声が裏返って、そこが好きだった。穏やかな優しい人だった。
身長がバグってる私(175cm)と、多分165cmくらいの身長だった彼。私は自分が恥ずかしくていつも背を丸めて歩いていた。
彼はノースフェイスのロゴの入った黒いダウンを着ていて、今でもノースフェイスのロゴをみると彼を思い出す。
本当におぼこい2人で、手も繋がなかった。
それでも色んなところに遊びに行き、夜は1時間も長電話をし本当に楽しかった。半年くらい続いたか。
当時、CHARA、ACO、小谷美紗子、Coccoをよく聴いていたので、当時の曲を聴くと切ないしかない。
私が就職で地元に帰ると知り、そこからあからさまに彼の態度が変わった。
地元に帰ってから、私は彼を手放した。
最後まで本当に煮えきらない人だった。
ならば私が嫌な役をやろうと思った。
手紙を書いた。
さようならと一緒に、夢を諦めないでねとか、素敵な人に会えるといいね、とか書いた。
返事は来なかった。
私は、終わった、と、安堵した。
私にとっても負担だったのかもしれない。
1人になってしまった悲しさより、やりたかった仕事の方が勝っていた。
次出会ったのが夫なので、20代は仕事と遊びに夢中で、夫とは遠恋でちょうどよかった。
オキタくんは元気だろうか。
幸せだといい。
こんなだから、専門学生のころも夢ばっかりでろくに恋愛していない。夢と音楽や映画などのアートがあれば生きていける若者だった。
つまらないと思う人もいるだろう。
恋なんかいつでもできる。
多感な年頃にたくさんのアートに触れ、仲間とやりたい仕事に向けて勉強できた事を誇りに思う。
心配はいらない。
20代は、しごおわ合コン(仕事おわり合コン)的な感じで友達や仕事の先輩と合コンばかりしていた。仕事して遊んだ20代。
バキバキにメンタルの病気になった20代。
そんな感じ。
その話はまた書こう。