キリスト教文化史のレポートを半分ほど終えたところでの投稿。

特別信仰してる宗教がない私にしても、この授業は面白いし、視野が広がったり新しい発見とかがあったりで、今期一番取ってよかったなーと思う講義です。
はじめとった時は、彼女の信じてるものってなんなんだろうかとか彼女自身について知りたいななんて少し邪な考えでしたが(笑)
まぁそういう興味からにせよなんにせよ自分にプラスになったので御の字かなと。


レポートは教授の書いた大学生向けのキリスト教学みたいな本の章をまとめて自分の思ったことを素直に批判でも同調でも書くっていう、まぁそれなりにありふれた課題なんだけど。

タイトルにもした信仰について書いてました。
未然のことについて相手と相手の立てた約束を信じるって話。

講義内で、
「信仰っていうと堅苦しいけど、
例えば友達が何時に○○ねー!
みたいにいったことに対して、疑い持たないし、みんないくでしょ?それも信仰だよ。」

とかそんなわかりやすい例えを出して頂いて
ふむふむ。

となんとなく納得して、
聖書読んで神との約束は守ればちゃんと果たされるよってこともみて、
ふむふむ。

と。

正直あんまり人を疑わないし、素直にホイホイと乗っかっていく私からすれば約束を守るのがどうこうとか当然のことで、今まで特に考えたことなかったけど。

ただやっぱり神と人間じゃなくて、私が生きてる世界で繋がっているのは人間と人間だから、疑心暗鬼にもなるし、それが人を鬱々とさせることもあるよなーとか考えて、

誰かや何かを信じることはただひとえに自分の救済にだけなるわけじゃないのかな?っていう面で切り込みました。

もちろん宗教批判ではないです。
少しかじる程度だけど勉強して、いいなー!とか面白いなー!って思ったことばかりです。
だからこそこの信じる云々の話に繋げたくて講義やキリスト教についてを導入として挙げただけですので悪しからず。


信じるということには際限はないし、相手を信じることは自分の心を相手に勝手に預けることで、

相手を疑うより信じる方が気持ちがいいでしょっとかも思ったり。

疑心暗鬼って言葉あるけど、
誰か、何かを疑ったらそこに広がる景色は鬼ばっかり敵ばっかりだなって。
なにより自分がいやになります。敵になってしまいます。
あー、なぜ疑ってかかったのかと。


けど自分に自信がないと僕みたいな人間は自己防衛のためにたまに人を疑ってしまうこともあるのです。
最近は心配症ってのと絡めて本当に苦です自分が(苦笑)

人を信じて、人に信じられて、
そのためにどういうことをするべきかどうあるべきかと、バイトをしていてよく考えるようになりました。

毅然として、真っ直ぐにないといけないのかなとか。
そのために優位に立つ必要があるのかないのかとか。

人付き合いなしでは生きていけない世界に生まれたのだから、
心配かけない。頼る。頼られる。と、周りの手をとって昇華するような人間にならなくちゃなーと思います。
そしてそのために少しずつでもやはり周りから手を差し伸べられる必要も感じます。
自分だけが手を差し出しても、いつその手が取られるかわからない。

そんな寂しいことはありません。


相手を信用して手を伸ばす

信用してもらうためにために言葉をかける


いろいろな人と相互でそんなことができる関係になればいいなと思います。