これまで何度か地上天国の実現ということを書きましたが、

 

「地上天国」ってどんな世界なの?

 

原理講論では

「共生共栄共義主義社会」と書かれています。

それは、神を中心とした社会主義・共産主義のような社会ということですが、

 

わかりやすく言うと、

 

神様を親として、すべての人類が一つの家族になる、人類一家族社会を私たちは理想としています。

 

ここまでは、統一教会信者すべての共通認識だと思いますが、

 

じゃあ、そこでは私たちは具体的にどのように生活するのか、ということについては、あまり考えられていないように思います。

 

ある人は、韓国の清平にある箱モノが地上天国のモデルだと思っているようですが、私には、普段の日常生活を営むような場所には思えません。

 

文師は、南米で理想村と理想的な国家のモデルを造ろうと、農場を造られました。しかし、結局中途半端な状態で韓国に戻られ、南米摂理は軌道に載せられなかったようです。

 

私も、ライフワークとして、私の周りに地上天国のモデルを造ろうと思っていますから、具体的にどんな形にしていくか、当然考えなければなりません。設計図もなくつくることはできませんからね。

 

私が家庭を持って違和感を感じたのが、

 

それまでの教会での独身時代は、ほぼほぼ共同生活でした。月にわずかの小遣いをもらう以外にお金はありませんでしたが、衣食住は保証されていました。それが、祝福を受け家庭を持つようになると、住むところも自分で探し(一般社会では普通のことですが)、子育てやら何やら、すべて家庭内で解決しなければならなくなりました。それまで組織の丸抱えだったのが、急に外に放り出された感じでした。

 

しかも、祝福家庭は子だくさんが多いですから、私の妻などは子供のことで手いっぱいになってしまいます。当時は、私もまだまだ未熟で、あまり家のことに協力的でなかったかもしれません。人格完成など程遠い若い二人が家庭を持つわけですから、いろいろ上手くいかないことも出てくるのも当然のことです。

 

文師は、祝福家庭は一緒に住むように語られたと聞きます。

私も一時期、親しくしていた祝福家庭と同じ住宅に住んでいたことがあり、その時は子供を預かってもらったり、いろいろと協力し合って生活することができました。

 

「コレクティブハウス」というのがあります。北欧から始まり、世界の各地に広まった、複数の家庭が一緒に暮らす住宅です。独立した専用の住居とみんなで使う共有すベースがあり、生活の一部を共有化する住まいです。(参考:特定非営利活動法人コレクティブハウジング社ホームページ)

 

地上天国での住まいもこんな感じがよいと思います。一緒に暮らすことに抵抗のある人もいるでしょうし、デメリットもあると思いますが、それを上回るメリットがあるように思うのです。子育てもみんなで協力できるし、子供にとっても親以外のたくさんの大人と関わりの中で育つことは、学ぶことも多いだろうし、心の安定にもつながるように思います。みんなの目があることで、児童虐待も起こりにくいでしょう。昔の日本の大家族や長屋での暮らしみたいな感じですかね。

 

 

 

神と人、原理講義では「マル神」「マル人」と離して板書しますが、私的には、私と神は離れて存在していません。私は神の一部であり、私の心の奥底深くをずうっと訪ねていくと、神様の心情に通じていきます。「私を見たものは父を見たのである」と言えるのはイエス様だけではなく、誰でもそのようになれるのだと思います。

 

文師は、「良心は神様に勝る」と言われました。最初に聞いたときは驚きましたが、今は、ここで言う「神様」とは他者から伝えられた「神の言葉」で、「良心」は自分の心の中にいる神を指しているのだと解釈しています。教会の指導者が「神の願いは○〇です」と言ったとしても、果たしてそれが本当の神様の願いかはわかりません、むしろ、自分の心の中の良心に尋ねれば神様が何を願っておられるのか直接答えてもらえる、そういうことだと思います。

 

自分の良心から得られた回答が本当に神様からの答えなのかどうかはわかりません。でもそれは、他の人から聞いたことでも同じことで、ならば何よりも自分の良心に従おうと私は決めました。

 

以前、私は現在教会と距離を置いていると書きましたが、家庭連合から何か新たな方針が出たとしても、私は自分の良心に尋ねて納得できなければすべて無視しています。

 

神様との強い絆を感じているので、はっきり言って今の自分にとって組織はどうでもよくて、無くなっても構わないと思っています。

 

文師も私たちに「第二のレバレンド・ムーンになれ」「第二の神様、第二のイエス様の立場に立て」と語られました。それは、私たち皆そうなることができるということだと思います。

実は、今回のこの記事を書くのは3回目です。どういうことかというと、最初に途中まで書いたとき、下書き保存したつもりが保存されていなかったので、改めて書き直していたら今度はパソコンがバッテリー切れでシャットダウン。

 

これは、間違っているから書いてはいけないという警告かもしれない。少し調子に乗りすぎたかな、と少し反省。

 

そもそも、私たちが「神」についてすべてを把握することなどできず、ましてやそれを言葉で表現するなど不可能なことなのでしょう。それを、さもわかったような気になって書いているのは傲慢以外の何物でもないのかもしれません。

 

わたしが書いていることは、あくまでも私の勝手なイメージであり、たとえ間違いではないとしても、神について理解するための一つの考え方に過ぎないのだと思います。

 

さて、、

 

前回、「私と神がつながっている」と書きましたが、ということは、あなたと神も、そして私とあなたもつながっているということで、私もあなたも神の一部です。

 

例えば、島と島が海の上では離れているようでも、海の底ではつながっているのと同様に、私とあなたが島で地球が神にあたるようなイメージです。

 

ですから、あなたが痛みを感じれば、神は自分の体の痛みとして感じるでしょう。私もまたあなたの立場に身を置くことであなたの痛みを自分の痛みとして感じることができます。

 

例えば、今もなお、紛争地帯では、敵の砲弾や銃撃の恐怖におびえながら生活している人たちが大勢いて、その人たちの境遇に自分の身を置いて考えれば、私たちもまたいたたまれない思いになります。でも、私たちは、普段は考えないで、つまり波長を合わせずに生活することもできますが、神様はきっとそれができないのだろうと思います。そのような神様の心情に私たちの心情の波長を合わせられれば、神様の心情を自分の心情として実感することができるはずです。

 

私は、毎朝祈祷をしていますが、その目的は、神に何かを願う祈りではなく、自分の心情を少しでも神の心情に近づけるための祈りを心掛けています。そのために、神がこの世界をどのような思いで見つめておられるか想像しながら祈ることが多いです。