『魅惑』系
~現代女性『ウケル』考察 ~
最近の『Can Cam』の成功を「身近であること」をキーワードに解き明かしていこうとする試みは、大変に興味深い。
最近の若者をターゲトにしたファッション/流行において「身近であること」が重要な要素であるのなら、
そもそも読者にとって「身近である」こととは、なにを意味しているのだろうか。
「身近である」ことは、現実世界で実際に体験されたことだけではないだろう。
メデイアを介して知った/感じた事柄についても、私たちはごくごく普通に「身近である」と受け止めている。
そうだとしたら、どのようにしてメディアを介して身近さが構築されているかを明らかにすることが必要になる。
実際の日々の「日常体験」に照らして、「メディアのなかの世界」が身近であると判断されるのではなく、
そもそも「身近さ」それ自体が「メディアの世界」を前提として成り立っている現在において、
「身近であること」を考えていくためには、「身近さ」を社会学的に考察していくことが有効であると考える。
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特異分野系
「虚構とリアル」~虚構とセクシュアリティ~
現実世界とは異なる虚構の世界において、
「男性同士」というキャラクターに自らの欲望を託す腐女子のあり方を、
「自分自身は安全圏に置きながら恋愛関係の快楽を享受できる」として分析することは、的確であると考える。
しかし同時に、異性愛主義に還元される欲望のあり方からは漏れでていく要素が、
腐女子を担い手としたサブカルチャーには潜んでいるのではないだろうか。
そもそも、人々のセクシュアリティは先天的・生物学的な要因だけで「異性愛指向」として決められているのではない。
社会的・文化的な「構築」の結果として、多くの人々はさしたる疑問も抱くことなく、
自らの/相手のセクシュアリティを「異性愛指向」として前提しているに過ぎないとも言える。
だとすれば、虚構の世界で繰り広げられるセクシュアリティのなかに、
日常の異性愛の拘束から解き放たれた「セクシュアリティの揺らぎ」を読み取ることは、
決して的外れでも、無駄なことでもないと思う。なぜなら、
そのことは「一部の人々(ゲイ/レズビアンと総称される人々)だけの問題ではなく、
自らを「ふつぅー」と考えている多くの「私たち」にとっての問題でもあるからである。
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No Border系
異文化コミュニケーション〈title:関西(弁)って…!?〉
「関西(弁)」を事例として、日本社会全体のなかでの「異文化コミュニケーション」を考えていく視座は、大変に有効である。
但し、その場合には、現在の日本社会において「関西」それ自体が、
多くの場合「メディアによって表現されたイメージ」と無縁でないことに目を向けることが必要不可欠である。
つまり、「関西(弁)」とは、その他の地域や、関西について報じるさまざまなメディアから独立して存在するものではなく、
他者による表象を通じて構築されるものにほかならないのである。
つまり、関西以外の視点から描き出された「関西の姿」が、
いま現在の関西イメージを大きく規定しているのである。
そして言うまでもなく、このような「関西(弁)」のメディアによる表象には、
明らかな力関係が見て取れる(誰が/誰を/誰に向けて伝えることが許されているのか?)。
こうした点を踏まえるならば、「地平の融合(fusion of horizon)」という相互理解のために不可欠な現象も、
対等な二者関係の間で起こることではなく、
今現在の社会における力関係のもとで生起するものとして理解することが肝要となる。
そうした理解のうえではじめて、どのような他者との関係のもとで、
どのような地平の融合の結果として、
現行の「文化融合」が生じているのかを批判的に見ていくことが可能になるであろう。
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悩める系
私たちはみんな女優(俳優)!?
本音/建前、本当の自分/演じている自分、といった二項対立は直感的には分かりやすい。
しかしながら、そこで暗黙のうちに想定されている「本当の自分が抱いているホンネ」それ自体について、
じっくりと考えてみることが必要ではないだろうか。
そうすることで、日頃素朴に前提している「本当の私」や「本当の気持ち」といったものが、
実際には他者との関係/コミュニケーションの「産物」であることが明らかになるに違いない。
こうした「自己の社会性」を徹底的に解明したうえで、
どうして現代人の多くが今現在の自分のあり方に不満を感じたり、
満たされない部分を抱くのかを考えていくことにこそ、
現在の若者の実感に根ざした「自我論」の醍醐味と面白さが潜んでいるように思う。
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N三久系
ナショナリズムについて
ナショナリズムの担い手としての条件である「日本人であること」や「国民であること」は法制度的に同定できる(日本国籍を保有すること)。
しかしながら、「私たち=国民・日本人」の感覚的な次元では、
そうした法制度的な定義付けとはどこかしら(しかし決定的に)異なる基準によって、
「私たち=仲間」と「あの人たち=他人」とが峻別されているように思われる。
そうだとすれば、現在のナショナリズムを支えているのは、
果たしてどのような基準に基づく、どのような感覚や意識なのだろうか。
そうしたことを十分に見極めたうえではじめて、民族差別などの排外主義に囚われないナショナリズム(所謂「健全なナショナリズム」)の可能性について語ることが可能になると考える。
また、ナショナリズムの問題を「政治」のみならず「文化・社会」の問題として考えていくうえで必要不可欠なことは、
それを支持する/それに惹き付けられる人々の意識や感情を分析していくことである。
その際に有効と思われる概念は「自己愛」である。ナショナリズムを支持することが、
個々人の自己愛や自己アイデンティティの確立にどのように作用しているのか/いないのかを詳細に見ていくことによって、
グローバル化が声高に叫ばれる現代において、
どうして世界の各地において様々なかたちでのナショナリズムの台頭が見られるのかを理解する糸口が掴めるに違いない。
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世界不思議発見系 幸福とは??
—貧困から考える—
経済的な豊かさが必ずしも「幸福感」に直接に結びつかないことを多角的に明らかにした点は、大変に有意義であった。
とりわけ、現代日本における幸福感を考えていくうえで、
経済的な豊かさ以外の要因を考えていくことは必要不可欠であろう。
しかし同時に、絶対的な欠乏状況/貧困状態が人々にとって「幸福でない」ことも明白である。
例として挙げられていた「経済的に豊かでなくても多くの人々が幸せと感じている社会」について考えていく場合には、その点を見失ってはならない。
ある意味では、今の日本社会における「幸福でない感覚」は、
世界全体のなかで見れば極めて「贅沢な悩み」であると言わざるを得ない。
しかしながら、物質的に豊かな社会に暮らしながらも幸福を感じることができない当人たちにとっては、そ
のことが切実な問題であることも、また確固たる事実である。こうした事情を踏まえたうえで、
経済的・物質的に「豊かな」世界において、より多くの人々が精神的・文化的にも「幸福」を感じられるために
、なにが必要とされる条件なのかについて、考察を深めていくことが今後期待される。
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C.I.A.系
普通なら,第三者からの視線など気にならないはずなのに… どうして気になるのだろう?!
ファッションを手掛かりとして、私たちが日々の日常において誰の視線を/どのような理由によって、
気にしているのかを明らかにした点は大変に有益であった。
報告で分類されていた「自分の属するジャンル」の他人と「気にも留めない人々」の境界/連続がどのようなものであるのだろうか。
また、ファッション以外の領域において、これら二つの異なる他者集団の視線は、どのように意識されているのだろうか。
こうした(「自分」にとっての)他者集団の区分と境界について具体的に論じてくことが、今後の課題であると考えられる。
今回は「他人の視線に映る」という視座からのファッション論であったが、
これと並行して、「自分の表現」としてファッションを考える視座を明確にし、
そのうえで他人の視線・世間体と自己表現・自己快楽が衝突したり、
軋轢を生み出したりする場面について考えていくと、
グループの当初の問題関心のひとつでもあった「カウンターカルチャーとしてのファッション」について
論じていくうえで有益な視点が得られると思う。
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メディア戦略研究所
私たちは何を基準にしてモノを選ぶのだろうか?
モノが選択・購入される際に、単に機能や価格だけでなく
「経験価値」が大きな位置を占めていることを明らかにしたうえで、
ではいま「私たちは何を基準にしてモノを選ぶのだろうか?」を考えていこうとする方向性は、
大変に現代的かつ興味深いものである。
その際に重要なことは、商品広告に代表されるメディアが、
人々とモノとの関係(認知・評価・イメージの形成)の構築にどのような役割を果たしているのかを、
社会学的な視点から解明していくことであろう。「
経験価値」が現代のマーケティングで重要な要素であるとして、
そもそもそうした「経験」は、どのような場面において/どのような他者との関係のなかで/どのような媒介を経て成立しているのか。
そうした「(商品購入に際して重要な意味を持つ)『経験』が成り立つ仕組み」を社会学的に解明していくことによって、
マーケティング論の知見を援用しつつ、
社会学独自の「消費論」を展開することができるに違いない。