孔子の言葉に以下のような名言があります。
学而不思則罔(wang3),思而不学則殆(dai4)
(学びて思わざればすなわち暗し、思いて学ばざればすなわち危うし)
「学ぶ」と「思う」の本来の意味を調べるため、
昔の字典を開いたことがあります。
そうすると、以下のようになっていました。
学,識也。《広雅》
識別の「識」です。
意外なのは「思」の意味です。
思,容也。《説文》←「説文解字」の略です
容,盛也。《説文》
「思う」とは本来、「容れる」、「盛る」という意味だったようです。
ところで、
「容れる」、「盛る」には、その「容れる」対象、「盛る」対象が必要です。
孔子は、「学」と「思」をきれいに対比させて使っています。
とすると、「思う」の「容れる」「盛る」の対象は、
「学ぶ」なのではないでしょうか。
それならば、
「学ぶ」の意味は「空の器」と理解していいのではないか、と考えました。
ここまで考えると、私はドイツの哲学者のカントの言葉を思い出しました。
著書「実践理性批判」の中の言葉です。
「概念(言語)には、それに対応する対象が伴っていなければならない」
あなたは、「学」と「思」の関係をどう考えますか?
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バイリンガル、話す言語により性格変えている可能性=米研究
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-32425020080625
[ニューヨーク 24日 ロイター] 2つの文化に順応し2つの言語を話す人たちは、話す言葉によって無意識に性格も変えているという研究結果を、米国の研究者が明らかにした。
確かに、これはいえる。
中国語を使っているときは確かに性格が変化しているように思う。
以前、Newsweekで英語を母国語として使用している子供と、
中国語を母国語として使用している子供とでは、脳の反応部分に
違いがあるという記事を読んだことがある。
また、あるピアニストは、
「演奏というのは世界中を一瞬で駆け巡るようなものです。」
足し算といった簡単な数学の問題を扱う際に、
英語のネイティヴと、中国語の当地人とで脳の反応部分を
比較した実験。
http://brain.dlut.edu.cn/papers/news/msn.pdf
<実験結果>
数学の簡単な足し算で、英語のネイティヴスピーカーはまた脳の言語処
理の領域で活動を示す一方で、中国語のネイティヴスピーカーは視覚情
報を処理に関係している領域を使用していた。
<自分の実感>
英語を学んだ後と、学ぶ前とでは、自分に大きな変化があったのは
確かだった(18歳~23際くらいにかけて集中学習)。
中国語を学んだ後と学ぶ前とでも、自分に大きな変化があったのも確実。
今は論理とヴィジュアル。
本を読むときは、論理構造をキーワードで整理しながら、
一行一行ヴィジュアル化しながら読んでいる。
そんなわけだから、読むのは実は遅いが、
一度ヴィジュアル化できた内容を、論理をたどって、
スライドショーのように頭の中で再生できるので、
復習はメチャ早い。
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-32425020080625
[ニューヨーク 24日 ロイター] 2つの文化に順応し2つの言語を話す人たちは、話す言葉によって無意識に性格も変えているという研究結果を、米国の研究者が明らかにした。
確かに、これはいえる。
中国語を使っているときは確かに性格が変化しているように思う。
以前、Newsweekで英語を母国語として使用している子供と、
中国語を母国語として使用している子供とでは、脳の反応部分に
違いがあるという記事を読んだことがある。
また、あるピアニストは、
「演奏というのは世界中を一瞬で駆け巡るようなものです。」
足し算といった簡単な数学の問題を扱う際に、
英語のネイティヴと、中国語の当地人とで脳の反応部分を
比較した実験。
http://
<実験結果>
数学の簡単な足し算で、英語のネイティヴスピーカーはまた脳の言語処
理の領域で活動を示す一方で、中国語のネイティヴスピーカーは視覚情
報を処理に関係している領域を使用していた。
<自分の実感>
英語を学んだ後と、学ぶ前とでは、自分に大きな変化があったのは
確かだった(18歳~23際くらいにかけて集中学習)。
中国語を学んだ後と学ぶ前とでも、自分に大きな変化があったのも確実。
今は論理とヴィジュアル。
本を読むときは、論理構造をキーワードで整理しながら、
一行一行ヴィジュアル化しながら読んでいる。
そんなわけだから、読むのは実は遅いが、
一度ヴィジュアル化できた内容を、論理をたどって、
スライドショーのように頭の中で再生できるので、
復習はメチャ早い。
