見えない風景を切り取る

見えない風景を切り取る

常識にとらわれず、新しい視点で記事を書いています。
よろしくお願いいたします。

Amebaでブログを始めよう!

じっと花と向き合っていると、花が笑います。

花が「キレイに撮ってね」とささやきます。

だから私は一生懸命、そのこの一番美しい姿を

探します。

 

 

 

 

 

 

 

イメージ 1
       撮影は咲耶子

立花隆が無人島体験記で、面白いことを書いている。

実をいえば、ここにくるまでは、毎日のように食べきれないほど魚が釣れて、ウンザリして捨てたりという光景を頭に描いていた。立花隆氏

――ところが、現実はそう甘くなかった――

ほとんど釣れず、釣れる魚といえば毒々しい色のベラのみ。結局、気味が悪くて捨てたそうだ。
つまり、現地調達は、まるで出来ず、持参した食糧を食いつぶしたという。
さて、私たちが想像する無人島生活と現実の無人島生活には、どんな違いがあるだろう?
体験して、初めてわかることがある。
まず、やたらに気になるのが「時間」だという。

時計は持参しなかったので、現在が何時かわからない。もちろん文明社会のような予定に縛られた生活ではないので、時間など気にする必要もないのだが、やたらに知りたくなった。立花隆氏

他には「何かしたい」という欲求。人間は何もしないことに耐えられない生物なのだ。ヒマができて、さて何をしようかと考えたときに、まず何よりも先に思いつくのは生活環境の改善である。人間の三番目の本能が、生活環境の改善だという説は、ほんとうかもしれない。人間が道具を発明するのに、躍起になったのもうなずける。食事をするときに座るもの、調理台と同時に食卓になるもの、それらがいかに快適な役割を果たすか、無い生活をして初めてわかるのだ。立花隆氏

そうして、それらの代理品を島中を歩いて探し、見つければ、どんない重くとも、寝場所まで引きずるように運ぶことは、大変なエネルギーと時間を必要とする。これらの日常は「のんびり」とはほど遠く、原始生活は即物的、技術的なことなのだと立花氏は思い知る。

多くの人は無人島に行ったときの自分の行動をアレコレ想像する。
「退屈だろう、何もすることがないんだから」と思う人もいるだろうし「終日、釣り三昧」、「海岸の生物を見ているだけで飽きない」と想像する人や「島を探検して地図を作りたい」などと夢を語る人もいるだろう。

立花隆氏は、仕事に追われる日々を忘れて、自分の人生を振り返るなど思索にふけってみようと思ったらしい。

――再び、現実はそう甘くない――

多くの人の考える無人島生活は、自分ならこうやってみたいと思う単なる希望である。どんなに希望の数が多くとも、それはしょせん希望であって、人間は生命を維持するために生きていかねばならない。ゆえにどんな人もやることは同じだろう。というか、切実にやらねばならないのである。立花隆氏

それは文明生活でも同じだし、原始生活でも同じなのだ。私たちは食べるために働く。その仕事が好きか嫌いかは二の次で、とにかく食べるために働いている。給料を稼ぎだして、生物的生活を維持するわけだ。これは無人島でも例外ではない。生命を維持するために、金銭こそ関与しないが、やはり好き嫌いを二の次にして、食べるための行動が第一優先となる。立花隆氏


――無人島で「のんびり」はありえない――

無人島生活は、とにかく生活に追われる。食べるために、まず何を食べるかを考え、その仕度をし、できたら食べる。食べたらかたづけをする。日にそれを三度繰り返す。それだけで、一日五時間を費やす。起きている時間の三分の一を費やしてしまう。今回は食糧を持参したのでまだしも、これが何もなければ一日中、食べることだけにかまけて終わるだろう。人間にとって食べるということは、こんなにも大変なことなのか。立花隆氏

おまけに嵐が来れば、食事の仕度すら困難になる。天気が良ければ良いで太陽に焼かれるという恐怖に、テントの中からなかなか出られない。食べるということは、そう簡単なことではないのだ。このように考えると、人間が生きる本質は、なにも変わっていないということなのだろう。立花隆氏

――権力の発生についての考察――

毎日魚釣りから戻るたびに、一人でよかったと思った。もしもテントで魚を待ちわびている妻子がいたら、相当なプレッシャーとなる。さらに状況が改善されなければ、魚釣りがうまい男のところに、頭を下げて魚をもらいにいかねばならぬ。おそらく、権力の起源というのは、そういうところにあるのだ。立花隆氏

原始生活では、ぼんやり考え事をするとか、自然を観察して過ごすとか、風景を眺めている、未知の世界を探検するなどの、非実用的な想像を満喫するのは難しい。

今日、野外レジャーでそれらを満喫出来るようになったのは、人間の生活改善の長い努力と互いの協力であり、ようやく文明生活で現実となった。

つまり野外レジャーと原始生活は似て非なるものなのだ。
つまり私たちは「のんびりしたい」という夢を長い年月をかけて「獲得」したわけである。



イメージ 1
       撮影は咲耶子

「神との対話」という本の中に、こんな言葉がある。
「ひとがどう受け止めるかが重要なのではない。あなたがどう語るか、どう在るかが重要なのだ」
ブログでは常に、この言葉を意識して書いた。
 
ヤフーブログが今年で終わる。
時代の流れなのか、ブログ利用者が減ったのだろう。
 
発表の場として、ヤフーブログが無くなることは痛い。
個人的にだが、ここでは別な自分が出せた。
現実世界の私は、ひとり浮くような話は決してしない。つまり理屈っぽいことも小難しいことも言わない。
宗教や哲学や芸術、科学を生活圏にいる興味も無い人に語ればシラケる。

皆の主な興味は抽象的な話ではない。もっと身近で現実的なことだ。
たとえば家族のイベントやら、同僚の噂やら、芸能のスキャンダルやらだ。

ブログに生活の延長を語る人も多いが、一方で頭の中の世界を書く人もいる。
それが出来るのは、テーマに興味のない人は訪れないこと、受け答えも知識のある人がコメントを入れるからだ。

いっけん居心地が良いが、神経も使う。
書いた記事やコメントで、トラブルになることもある。
実際に意図したことは伝わらず、誤解から、けんか別れになった人もいるだろう。

言葉は便利だが過信出来ない。
そもそも言葉は自分の思っていることを「正確」に伝える力を持たない。
極端に言えば、あなたの文章の力量と、それが伝わることとは関係がない。

では、なぜ伝わらないか?
多くの原因は『受け取る側のフィルター』である。

たとえば、受け取る側に悲観的な『フィルター』が掛かっていれば、コメントの一言をネガティブと受け取るだろう。
相手は、露ほどの非難のつもりはなく、ちょっとした遊び心だった。ただ、そのコメントは短すぎたので、ジョークと受け取られなかった。私にもそんなふうに、まったく真逆に受け取った過去がある。

言葉というのは、大変恐ろしいものだ。
とくにブログでは、顔も見ず声も聞かず、字ずらだけで想像する。
よく誤解を受けるのは、世間一般に対しての批判を、その人個人の批判だと受け取られることだ。

もちろん自分の価値観と違えば、それは対立しているように見える。
だが違う意見は新しい世界への扉ともとれる。

社会とは色鉛筆のようなものだ。
「赤」が「青」を非難しても、「茶」が「緑」を批判しても、並んだ色鉛筆の主張は虚しいだけだ。
画家(社会)には、どの色も貴重で、新たな絵を描くのに必要なのだ。

そもそも相対して会話していても、私たちは自分の主張ばかりで相手の言葉など半分も聞いていない。
まして言葉のみの世界なら、非常な制限下に置かれている。
たとえば、こうして長い記事を書いていても、読み飛ばされ、ほとんど真意が伝わっていないかもしれない。

それでも問題提起をし、デスカッションすることをあきらめるべきではない。
あらためて言おう。
言葉には制限がある。人にはフィルターがある。
それでも恐れずに自分の考えを正直に語ろう。

最後に神との対話を引用したい。

神:「毎日真実を求め、真実を語り。真実を生きるのだ。自分自身に対して、人生で関わりあうすべての人に対して それを心がける。それから裸になる覚悟をしなさい。どうぞ見て下さいと立ちあがりなさい」 

男:「それは怖いです」 

神:「何が怖いのか考えてごらん?」 

男:「誰からも好かれなくなるのが怖いのです」 

神:「ほう!すると人に好かれるためには、嘘をつかなければならないのかな?」 

男:「嘘というほどではありません。何もかも言うわけにはいかないのです」 

神:「別にささいな感情や、考え、思い、恐れ、告白まであけっぴろげにしろと言うのではない。 ただ真実を語り自分をまるごと見せるだけだ。難しいことはわかるよ。だがぜひ勧めたい。 とても大きな見返りがあるからだ」

引用元~神との対話・N・D・ウオルシュ著より




イメージ 1
                    撮影は咲耶子

こんなニュースが流れた。
「トランプ米大統領がシリア南西部のイスラエル占領地ゴラン高原でのイスラエルの主権を承認」

再び火種がまかれた。
いや、むしろ放火に近い。

「イスラエル・パレスチナ紛争」「9.11」「ISIS」
ようやく人々が落ち着きを取り戻した矢先だ。

イスラエルでのテロ行為もまた、ここ十年ほどは落ち着いており、突然の死といえば、今では交通事故で亡くなる人のほうが圧倒的に多いという。

さて、あなたは、タイトルの「われわれは赦さない」「徹底的に闘う」
この言葉を聞いて誰を想像しただろう?

「テロリストの犠牲者」?それとも「テロリスト」?
そう、両者が「同じこと」を言っているのだ。

――テロリストすら「被害者意識」がある――

こう書くと、驚くかもしれない。
そもそも、テロリストは、どうして私たちを殺そうとするのだろう?

まず、知ってほしいのは、人間は悪いことを行うとき、それを「悪いこと」と自覚することを避けようとする。
罪悪感を避けるためだ。

だからまず「自分勝手な正義」を創作する。

明らかに「人を殺す」ことは「悪いこと」である。
だが、それを「正当化」する理由づけを人間はあみ出した。

――「報復という正義」どちらの側もこの大義名分をかかげる――

いや、明らかに「テロリスト」が悪いと思うだろう。それは、私たちが被害者側だと感じるからだ。
そして
「テロリスト」も、また同じように、自分たちこそ被害者だと感じている。

――この「報復」をたどれば、いったいどちらが先に手を出したか?というようなイタチごっこに陥る――

「殺し」は、いったいいつ始まったのだろう?
もはや、虐殺の歴史など誰にもわからない。

そんなものはなかった? 相手の思い込みか?  それならばこのような「恨みの想い」はどこから出てきたのだろう?

――私たちは遠い昔から「赦し」よりも「報復」が問題解決のベストな選択だと考えている――

たぶん、どこまで時間を遡ろうと「相手が悪い」のだ。現実的に考えるなら、どちらも犠牲者であり加害者であった。

そして、もう一つ知ってほしいことは、私たちは「被害者」になりたいのであって、決して「加害者」にはなりたくないのだ。

さらに「悪いやつら」は、徹底的に懲らしめないと「悪いことを止めない」と考えた。
それは「暴力万能」という考え方だ。

自らの命さえ捨て「テロ」を実行するテロリスト側。
それを武力で阻止出来ると信じる国際社会。
どちらも、巻き添えが出るのは仕方ないと考えている。

闘う者たちだけが、戦えば「恨み」はうまれなかっただろう。だが「戦うものたちの家族」が犠牲になるのが戦いだ。
老いたもの、女性、子供すら虐殺されてきた。

どうして、こういう悲惨なことになるのだろう?

――相手を二度と立ち上がれぬほど、たたきつぶさないと、報復に終わりはこない――

少しでも残党が残れば、そのものたちが「恨み」の意思を継ぐ。

さらにこの恨みは、飛び火する。一定の場所に塊となって存在しているわけではない。
母は恨みを息子に託す。老人は恨みを若者に託す。この恨みのエネルギーは一族全員を抹殺するまで続く。

テロリストも国際社会も報復は正当だと確信している。また報復とは暴力しかありえないとも確信している。

恐怖と抹殺こそが、ベストな選択となったときから「殺し殺される」ことは正当化された。人類の歴史となったのだ。

――恨みを封じ込める方法は無い――

たとえば、内戦下のシリアでは人口の半分に当たる1100万人以上が家を追われ、うち470万人が海外に逃れた。
逃げた先で、イスラム教徒は女子供まで「テロリスト」として迫害されている。

それは根深い偏見と差別が生まれる瞬間だ。
彼らは異国で偏見の目に迎えられ、異国の冷淡さは彼らに疎外感と憎しみを植え付ける。

人種のるつぼと呼ばれるフランスでは、アラブ系移民の子孫だけでも36%、国の内部からも不満分子は生まれる。
同じ場所にいるが、お互いが「敵」なのだ。テロリストは遠くからやってくるのではない。
その場所で育てられていくのだ。

そしてついに、その恨みは花開く。
「その場所におまえの居場所はない。ISはいつでも歓迎する」と。

――あなたがどちら側だろうと、武器を手にするとき「恨み」の連鎖が起きる――

身内を殺した殺人犯にズドンと一発お見舞いする。
そしてそのあなたが殺した殺人犯の身内が怒り狂ってあなたやその身内に銃を向ける。それが戦いの歴史だ。

突き詰めれば、すべては報復である。
そして「報復」はカタルシスである。
「不満」「恨み」というエネルギーの開放なのだ。

――この世界に平和は訪れるのだろうか?――

一つ希望がある。

良い例がある。
「恨み」ではなく「赦し」を選択したのは、じつは日本人だった。
原爆で死んだ人々の家族は「恨み」をアメリカには向けなかった。
あれほどの酷い仕打ちを受けたにも関わらず「報復」は起きなかった。

この事実はとても貴重だ。日本人の危機管理はお花畑と揶揄する人もいるが、70年もの平和は各国の理想で希少な歴史となった。

全世界で「赦し」という選択とはなにかを考えていく見本となった。
逆に「報復」は拡大こそすれ、虐殺を終わらせられていないことは明らかである。

イメージ 1
                   撮影は咲耶子

この記事をちょっと読んでもらいたい。

アメリカのトップモデル、シェリル・ティーグスは、何年もモデル業界で君臨してきた。 目鼻立ちが完璧に整った女の子たちが、じつにたくさん現れては消えてゆくのを見てきたという。 

モデルは世間で思われているより本当に大変な仕事です。身体のあらゆる動きを把握していなくてはなりません。脚も腕も指さえ言われたとおりの位置にしないといけません。 しかもハイヒールを履いて溶岩のあちこちでポーズをとることもあるのです。

 そしてここからが、うまく出来ない子が多いところです。 つまり「セクシーな表情」「かわいい顔」をしただけでは十分でなはなく、その奧になにかがないとだめで、それには集中力が必要です。 たとえば愛や幸福感を自然に表現することが出来ないとダメなのです。

こうした自然な表情は必ず顔つきに表れます。 さらに彼女は言う。美しさは年齢と無関係だということがよくわかるようになりました。 八十歳代で活躍していたジェシカ・タンディと飛行機で一緒になりました。 近くの座席になったのですが、やはり文句なくすばらしい女性でした。美しさは内面から来るものです。 態度や身ごなしでその人の魅力が決まるのです。

生き方はほんとうに顔に表れる。
性別は関係ない。年齢も関係ない。
テレビで頭を下げている企業や政治のトップの方々の顔は、なぜ妖怪のようなのか?
それと正反対に他者のため社会に真に貢献してきた人の顔はなぜ品よく美しいのか?
美男美女で誤魔化せるのは二十代まで。その後はその人の内面が刻まれる。
口がへの字になってる? 目がどんよりしてる? 他人はあなたの人格を案外ちゃんと見抜いている。
もうひとつ記事を紹介。

~最新脳科学でわかった五感の脅威より抜粋~ 

生き方が顔に表れる、とよく言われる。これにはある程度科学的裏付けがある。 研究によると七十歳になる頃にはその顔写真を見るだけで、その人がどんな感情を抱いて生きてきたかが、知らない人でもなんとなく読み取れる。 理由は簡単。実践を積んできたからだ。

顔の皮膚の下は50種類あまりの異なる筋肉の集まりで出来ていて、そうした筋肉が身体中でもっとも複雑な配列で関連しあっている。 しかも筋肉のつねで、鍛えれば鍛えるほどよく動くようになる。 つまり微笑む回数が多い人ほど、顔で喜びを表しやすくなる。

 このような長年の表情癖は表情だけでなく、歳を取ったときの顔のつくり全体にも影響を及ぼす。 顔の筋肉はもちろんしわの寄りかたにも影響する。研究によれば人の印象は顔を10分の1秒見ただけで決まり、これよりいくら長く見つめてもその印象は変わらないらしい。 しかも感じた印象はある程度合っていることが多い。



スペースシャトルの中といえば、無機的でクリーンなイメージだ。
ところがどっこい、スペースシャトルの中ほど人間臭い?空間はない。

これは映像では決して伝わらない現実のひとつである。
あるNASAの関係者は話す。
「地上に帰還してハッチを開けたときです。いっきに中の臭いが漂ってくる。
その臭いは、そりゃあもう鼻が曲がるほどひどいんです」

何週間も六畳一間で雑魚寝をする男ども。窓は閉め切ったままで淀んだ空気。そんなアパートの一室を想像すれば何となくわかる。
そう、宇宙は真空なのだ。宇宙に飛ばす乗り物は完全密閉でなければならない。
つまり外界との空気の入れ替えがないのだ。ゆえに臭いは滞留する。

だが、彼らは生活するしかない。
狭い船内にはもちろんお風呂などない。半年も風呂無し生活が続くこともある。せいぜいウエットタオルで身体を拭くことしか出来ないのだ。
どんなに清潔に保とうとしても体臭や汗の臭いは出てくる。
そしてそれに機械の臭いが混ざりあう。

トイレだって数人もいれば、入れ替わり何度も使われる。
完全無臭というわけにはいかないだろう。
オナラや吐く息、汚れた髪や身体。これら人間に欠かせない新陳代謝が生み出す排泄の臭い。
すべてが混じり合う。この臭いはそこで過ごす者しかわからない苦痛だろう。
 
そして、もう一つ映像では伝わらない現実がある。

あなたは船内がシーンとしていると思ってないだろうか?
それは宇宙空間の静寂だ。確かに宇宙空間は音が無い。
だが、宇宙ステーションの中は真逆である。
騒音に溢れ、耳をやられ難聴になる宇宙飛行士もいるほどうるさいのだ。

その騒音の原因はあらゆる装置の作動音である。
換気扇、実験装置、冷却水を回すポンプ、こうした装置の出す音が充満して騒音となる。
「音」もまた密閉空間の中で、こもったままなのである。

そして大いなる誤解は宇宙の孤独だ。

 
誰も見ていないどころか、常にカメラで監視されているのだ。
他にも宇宙酔いに悩まされる。地球をわずか八分で回るので、体内時計が狂う違和感もある。

宇宙はとてつもなく広い。だがシャトル内はとてつもなく狭い。
 ようやく互いがすり抜けるのがやっとの狭い空間だ。
国籍も民族も文化も違う人間同士が、プライバシーもなく24時間顔を合わせて生活を送る。
これほど狭い空間に長く一緒にいれば他愛ない互いの欠点が見過ごせなくなってくる。

そして宇宙には悠久の時が流れている。
だが、シャトル内の彼らは、秒刻みで次々とスケジュールがつまっている。

宇宙に触れようとすればするほど、宇宙との壁が立ちはだかる。

ここに大いなる矛盾がある。


イメージ 1
      撮影は咲耶子

963人の難関を突破して最終選抜に残った
宇宙飛行士候補10人の経歴を見てみよう。
 
      航空自衛隊パイロット 38歳
      全日本空輸福操縦士  32歳
      海上自衛隊 外科医  31歳
      理化学研究所 研究員 36歳
      沖電気工業経営企画部 37歳
      産婦人科医      35歳
      エアーニッポン機長  34歳
      海上保安庁パイロット 33歳
      JAXA地上管制官  32歳
      アドバンズド キャパシタ
      テクノロジーズ開発部 30歳
 
やはりパイロットの方が多い。
いずれも三十代。
社会に出て十年、もっとも心身共に充実している年代。
 
さらにこの10人から、最終的に選ばれたのが、
自衛隊パイロット、全日空副操縦士、海上自衛隊の外科医の3人。

試験管は言う。
「最終選考者10人は飛び抜けて優秀な方々ばかりで、甲乙などつけられない」

しかし試験管はこうも言う。
「かといって合格した3人が『運がよかった』などという単純な理由で、
選ばれているわけでもない」

二週間の試験の内容や過程からは、運などという曖昧なものは吹っ飛んでいると言う。
 
二週間のあいだ、彼らはJAXAとNASAにカンヅメになり、宇宙飛行士の資質を非常なまでの厳しさで見極められる。

言わずもがな、わずかな心身の健康の心配があれば排除される。
「何故なら宇宙飛行士の死亡率は他の仕事と比べて、突出して高いからです。わずかな判断ミスが生死をわけるのです」
 
パイロットが多くなるのには訳があると言う。
「危機的状況に平常心を持ってあたる訓練が日頃から出来ているためです。
宇宙飛行士は機器のトラブルを、自らの力で直さなくてならないので、そういう意味でも深い技術力のあるパイロットは最適です」

ならばキャリアが夢をかなえるのだろうか?
まったく逆なのだ。

彼らのキャリアはもちろん特別なものだ。
だが、このような高いキャリアの人しか宇宙飛行士になれないわけではない。
それは本末転倒というものです。宇宙飛行士になりたいという夢が先にあり、その夢を強く持ち続け、そのためには何が必要かを考えた結果、それにたどり着く道として、努力で高いキャリアを習得してきたのが彼らなのです」

航空パイロットのAさんは、長野の人口4500人の山村で育つ。
ちいさい頃から星空を見上げ宇宙に憬れを持っていた。
その夢を追い続け、少しでも宇宙に近い道をと、F15戦闘機のチームリーダパイロットになった。
 
Oさんは、SF映画が大好きで、いつか宇宙へ行ってみたいと憬れた。
だから航空宇宙工学を専攻し、その後ボーイング767の副操縦士として活躍するのだ。
 
もうひとり、Kさんは医者でありパイロットではない。だが潜水医学が専門で、自衛隊の閉鎖空間である潜水艦で心身のケアなどをしてきた。やはり子供の頃から宇宙に行ったりする冒険家にあこがれていたという。
 
夢をかなえるためにキャリアをつける。
そして憬れはいつしか覚悟に変わる。

「夢が実現するには、ひとつの高いハードルが存在します。そのハードルを「覚悟」と呼びます」
ほんとうに数少ない宇宙飛行士という人びとは、ほんのわずかの確率でさえ偶然に選ればれたわけではない。

夢を憬れつづけるのは大事なことだ。夢に向かってキャリアを磨く。
だが、それだけではたどり着けないのも事実である。
いままで得たキャリアをすっかり捨てさる『真の覚悟』が必要なのだ。

「飛行士に選ばれたからといって、ただちに宇宙に行けるわけではなく、一生地上で待機ということも起こります。
選抜試験は資質と覚悟の両方を見ていくのです」

※資料元は「宇宙飛行士選抜試験」・大鐘良一・小原健右




宇宙飛行士を選ぶための選抜試験の最中だった。
とあるミステリーが起こる。

「おいゼッケンI(アイ)が二人いるぞ!」

閉鎖空間で課題をこなす宇宙飛行士候補生らをチェックしていた審査員らがざわめいた。
他の審査員が叫ぶ。
「代わりにHがいない」

原因はすぐにわかった。Hのゼッケンの縦横を間違えて身につけていたのだ。
それでHがIに見えたのだ。

「気づかないんだね」
「周りも教えてあげればいいのに」

そう言った審査員らの顔が、しだいに深刻なものに変わる。
「この候補者たち、みんな大丈夫か?」

あなたは、何故審査員がこのハプニングを深刻に受け止めたかわかるだろうか?
たかがゼッケンのつけ間違いではない。
これは宇宙では、命に関わる出来事なのだ。

宇宙服はいくつかのパーツに分かれている。
手順通りに着込んでいかねばならない。もし間違えたら、命に関わりかねないのだ。
それは自分だけでなく、乗組員全員の任務に影響する。

さらに間違いを他者が教えないことは「チームワーク」に問題があるということである。
チームワークは、宇宙では作業を進めるためだけの言葉ではない。
命を守るための言葉でもある。

ひとりの審査員が苦々しい顔でつぶやく。
「つけ間違えて気がつかないままでいるというのは、あまりよろしくないですね。
他の候補者も気づいて指摘してあげるべきです。ライバルとはいえ、同じ目標に向かうチームメイトなのですから」

宇宙飛行士採用の試験で最も重要な基準には、リーダーシップともう一つある。
フォロアーシップだ。
フォロアーシップとは、リーダーに従い支援する力を示す。

 ちょっとしたハプニングが、宇宙飛行士試験では重要な問題点として取り上げられる。
なにしろ人間のいることの出来る船内は閉鎖空間であり、壁一枚隔ててその向こうは真空の宇宙なのだ。
その閉鎖空間に支障を与える人材は選ばれない。

スタンドプレーも逆に謙虚さも、危機的状況では足を引っ張ることになる。
「他人がミスをすれば自分が有利になる」と考えて放置するなどは論外である。

※資料元は「宇宙飛行士選抜試験」・大鐘良一・小原健右