歩きながら歌ったが歌える唄が途切れ、キクは孫2人の寒

そうな雰囲気に気付き、気を使い話しを始めた。

「ほれ、好夫も晃一も寒いんじゃろ、ほしたら、バアやんの

方に寄りな、体を寄せ合ったら温いけんな」

「ほうか、バアやん」

 

 キクは好夫と晃一の体を自分の方に引き寄せた。

「ほれ、どうじゃろか、もう温いじゃろがだ」
「ほんま、バアやん」

 晃一はキクに引き寄せられ晃一もキクに縋り付いた。

「のう、あの高い立派な山が、讃岐富士じゃけんな」
「あれがか、大きい山じゃ、バアやん」

 池から少し高い丘陵地に差し掛かり、キクが歩みを止め北

の方角に見える、雄大な見事な讃岐富士を指差した。

「あんな、りっぱな山に、好夫も晃一もなるんじゃわ」
「うん、あんな山にな、バアやん」

 

 母胎機能の偉大さがキクから孫に継承された。

 

(…もう、病み上がりの遠出じゃったが、ウチの人生に深い

思い出を残したわ、大切な日となったけん…)

 池の土手に腰を降ろし話した事をふり返った。

(…あの、療養中に読んだ本が、財産になったわだ…)

 キクが語った母胎の不思議が晃一の胸中に刻み込まれた。

           ー337ー

 キクは机上の論理よりも生きた母胎機能に魅力を感じた。

 

(…あの、寝込んだ時に読んだ本が、役に立ったわだ…)

 

 大病を患ったキクは書物に出会い悦びを味わった。

 

「のう、晃一だ、母やんの袋の話しな、どうじゃった」

「あれな、ええ話し、じゃったわだ」

 

「ほしたら、永い事な、忘れんとけよな」

「もう、あの話し、覚えたけん」

 最も大切なのは人間などの生命を重要視した、哲学的な理

念を基礎に築かれた理想社会こそが、人類が永年に願った夢

を見続けた、現実的にも可能な倖せの方途なのだ。

 

「ほうか、ほしたら晃一な、母やんはおまえを守り、苦労し

たん解ったんか、忘れたらあかんけん」

「うん、忘れんわだ」

 人々の生命が輝き笑顔溢れる社会環境が理想と言える。

 

 母胎機能の子宮には、胎児の生命を守り育むと言う機能が

整い、理想社会の実現にヒントを投げ掛けた。

 

(…あの、母やんの袋の話し、晃一にしよかったわ…)

 

 どんな思想や哲学も生命倫理を抜きに語れない。

 母の胎内は命の故郷と晃一の胸中に刻まれた。

 前方に連なる山々の装いも、晩秋の色彩を豊かにし季節の

深まりが加わり、冷たい風が吹き抜け冬の準備が始まった。

           ー336ー

 キクは床に伏せった時の退屈凌ぎに、父母が残した小説や

医学書を読み、改め見聞を拡げ若さが甦った。

(…こんな、母やんの袋の話し、晃一にしか出来んわだ…)


 今日キクが晃一を相手に語った、母胎機能の話しは先人の

医学者が、定義を理論化したが道半ばの感は否めない。

(…ほれが、今は晃一には、難しいと思うたけん…)

 人々が理想的な生活空間をユートピアと論じ、哲人は難解

な理論を展開したが、普遍妥当性の理念に乏しかった。

 

(…この、今日の話しは、晃一も忘れんじゃろ…)

 だがキクが語った母胎機能は明確だった、母胎機能は胎児

の命を守り育む、母胎本来の機能に不足はなかった。

 

(…ほれ、生涯学ぶ、勉強じゃわだ…)

 理想的な社会生活とは命が守られ、衣食住が保障された安

心安全な、キクの斬新的な解り易い考え方だった。

「ほな、ぼちぼちいのうか、母やんも待っちょるわだ」
「ほうか、、バアやん」

「のう、晃一、今日は思い出が仰山出来たか」

「ほれは、いっぱいじゃ、バアやん」

「もう、今日はええ事が、仰山あったのう」
「ほしたら、バアやん、手を繋ごうか」

 キクを真ん中にし3人は手を繋ぎ歌を唄い家路を急いだ。

           ー335ー

「もう、バアやんだ、ほんなにじゃわだ、きつうにバアやん

が抱いたら、もうワシな、  息が苦しいわだ」
「ほうか、ほうじゃわ」

 衝動に駆られたキクは孫を抱いた手を緩めた。

「おお、晃一、痛かったか、ほうじゃわ」
「ほんなん、ええわだ、バアやん」

 まさに傍から見れば3人が親子にしか見えなかった。

 キクが立ち上がり腰の枯れ草を払った。

「ほな、晃一、またバアやん、顔洗うけんな」
「ほうか、ワシも顔洗うわ」

 兄の好夫の方にキクが声を掛けた。

「のお、好夫、おまえ、顔を洗わんのか」
「ほれな、ワシええわだ」

「ほうか、ほんなら、ええわだ」
「うん、ええけん」

 特別な理由はなかったが好夫は顔を洗わなかった。

 兄の好夫にも平等に接しようとキクは気を配ったのだ。

(…もう、ウチが晃一に寄り添うけん、ほんま、いかんけん

な、晃一が息子とよう似とるけん、もうついなあ…)

 キクは性格的にも晃一が好きだった傾向があり、声を掛け

る頻度の多さに気を使い、兄の好夫にも話し掛け配慮した。

           ー334ー

(…もう、秋の日差しは短いが、今日はよかったわだ…)

 うれしそうに西に傾いた秋の太陽をキクは眺めた。

(…あれっ、今な息子の顔が、水に写ったわだ…)

 キクは夕日が映える水面に視線を落とし、まだ戦地から帰

らない息子の面影を偲び、胸が締め付けられた。

(…のう、龍夫だ、おまえもな、この母やんのお腹の袋に戻

るんじゃぞ、母やんは待っちょるけん…)

 戦地から戻らぬ息子に思いを馳せキクは涙を滲ませた。

(…おい、龍夫、息災か、きっとな戻れよ…)

 哀愁漂う黄昏時の夕焼けがキクの頬を茜に染めた。

 秋の夕暮れは物悲しさを思わせ、キクの涙を柔らかい秋の
風が、拭い去るように水辺を流れ抜けた。

(…のう、龍夫だ、おまえも母やんの袋の家から、今は遠い

旅に出とるけんどな、戻るんは母やんの処じゃけん…)

 辛い母の願いこそ理想社会の理念に等しい。

「なあ、バアやん、涙出とるわだ、拭いちゃるわだ」
「ほうか、涙出とるか」

「また、バアやん、父やんの事じゃな」
「ほれが、今日は色んな事が、うれしかったわだ」

 今の悦びに心は弾みキクは孫2人を引き寄せ抱き締めた。

           ー333ー

 晃一が怪訝な顔をしたがキクは余り気にはしなかった。

(…まあ、今は晃一に、解らんじゃろな…)

 母のお腹から旅立ち母のお腹に帰るとは、キクは晃一に語

るより自身に言い聞かせる教訓だった。

 

(…もう、ウチは母やんを大切に、せなあかんと、常に思う

とったけんどな、ほれが迷惑を掛けたもんな…)

 キクが大阪に行き世間の倫に外れ偲び恋をし、龍夫を産ん

だ時には故郷の母に、言い尽せない苦労を掛けたのだ。


(…あんな、ウチが乳飲み児の龍夫を抱え、母やんの古里に

戻った時じゃった、母やんは内を抱き締め涙を流した…)

 母の心は宇宙よりも広かった、命の故里と言える母のお

腹に帰りたい、母のお腹は理想社会の縮図なのだ。

 理想社会は命を育む母胎機能の範疇にある。

「のう、晃一、ほんまに母やんを大事にな」
「ほうじゃ、解った、バアやん」

 

(…これは、ウチに言い聞かせる、事じゃわだ…)

「ほれ、のう晃一よ、母やんの袋の家からじゃわ、旅に出た

んじゃけん、人生の土産を持ち母やんの袋に戻れよ」

 如何に高邁な理論をふりかざそうとも、命を粗末に扱う仮

面を被った者に、理想社会を論じる資格はない。

 母が悦ぶお土産を見付ける旅が人生だとキクは言いたか。

           ー332ー

(…あれぇ、えらい晃一の顔が、神妙じゃわだ…)

「のう、晃一、何か考え事なんか」
「ほれはな、バアやんの話し、忘れんように覚えとるけん」

「ほうか、偉いのう晃一、今の話し覚えとるんか」
「もう、忘れたら、あかんけん」

 キクは晃一の横顔を眩しそう見詰めた。

(…ほんまに、最近の晃一は、男らしゅうなったわだ…)

 晃一が惚れ惚れとした男にキクの眼に映った。

(…もう、孫の晃一が、息子に見えるけん…)

 ぎゅっと晃一を抱き締めたい、そんな衝動にキクは駆られ

たが、瞬時に冷静さを装うキクだった。

「のう、晃一だ、ほれ、おまえの母やんは、おまえを命を賭

け産んだんじゃけん、ほんま大切にせなあかんわだ」
「ほれは、ほうじゃバアやん」

 意識はなかったがキクの口調は母の言葉だった。

「ほな、今度は母やんをな、晃一が守る番んじゃわだ」
「ほうじゃ、バアやん」

「ほれ、晃一だ、おまえはな、母やんのお腹からな、今の世

の旅に出たじゃろ、戻る処も母やんのお腹じゃわ」
「ほうか、母やんのお腹に、戻るんか」

 晃一の訝しそうな眼球にキクの話しが疑問符とし残った。

           ー331ー

 タオルを首に掛けしゃがみ込んだキクは手と顔を洗った。

(…ああ、顔を洗うたけん、さっぱりしたわだ…)

 芝生の土手に戻ったキクは腰を降ろした。

「のう、晃一、もうそろそろ、退屈したんと違うんか」
「しとらん、バアやん」

 秋の夕暮れは釣瓶落と言われ太陽も西に傾いた。

 キクが眩しそうに太陽の位置をちらっと見た。

「ほな、晃一、もうちょっとだけな」
「ほうか、聞きたいわだ」

 帰り時間を気遣ったのかキクは話しのテンポを早めた。

「ほれ、晃一がじゃわ、母やんのお腹に、いた時じゃけん」
「ほれが、どなんしたん」

「ほの、時じゃわだ、ご飯はどうしたんかいな」
「ほんなん、ワシ覚えとらん」

 晃一は口を尖らせキクの問いに苛立った。

「ほれが、晃一、ご飯の代わりが、あったじゃろがだ」
「あの、羊水の栄養かいな」

「ほのな、羊水の中の栄養とは別にな、母やんから臍の緒を

使い栄養になる、ご飯を貰とったんじゃわだ」

 考え込む晃一の脳裏に先ほどのキクの話しが散ら付いた。

           ー330ー

「あのな、もし母やんが、躓き転んだりしたらな、袋の中の

晃一はじゃわ、羊水に守られ、怪我せんけん」
「うん、バアやん」

 

 話しを簡潔に噛み砕き晃一に話した。

 

「ほれから、晃一がおった、母やんのお腹は、こぢんまりし

た部屋じゃったし、住み易かったけんな」
「ほうか、バアやん」

 

 晃一の目の輝きから理解のほどをキクは予測した。

 

「ほの、袋の部屋は、寒い熱いがないけんな」
「ほうじゃ、バアやん」

 

 キクは同じ内容を少し角度を変え晃一に説明をした。

 

(…もう、晃一は、さっきの話し覚えとるけん…)

 

「この、打ち出の小槌のような、不思議な羊水が溜まった袋

は母やんのな、お腹の中にあるじゃろ」
「ほれは、何回も聞いた、バアやん」

 

「なあ、晃一だ、羊水の温度はじゃわ、母やんの体温と変わ

らんけんな、春や秋のようにな、もう心地ええけん」
「ほうか、バアやん」

 

 キクの話しが理解出来ると興味が膨らむ晃一だった。

 

「また、羊水には黴菌がおらんけん、病気にならんわだ」
「ほうじゃわ、バアやん」

 

時間が気に掛かりキクは西日を眺め水辺に降り顔を洗った。

 

           ー329ー

「ほれだ、晃一な、話しが解らんけん、退屈と違うんか」

「もう、ほんな事ない、バアやん」

 

 胎児を育む子宮の袋には種々の機能が整い、出産に向け胎

児を守り完璧な安産の環境を整えるのだ。

 

「のう、晃一よ、母やんのお腹は、凄いじゃろが」

「ほんま、凄いわ、バアやん」

 

 子宮内の羊水は外部からの衝撃を受け止める、クッション

の役目があり、柔らかい胎児の体を守る機能もある。

 

「もしか、母やんがな、石ころに蹴躓き、お腹を打つたとし

たらじゃわだ、けんどじゃ、晃一は痛うないけん」

「ほれ、ほんまか、バアやん」

 

 また羊水液には栄養が含まれ、胎児の成長を促し出産に備

えた、種々の機能が働き万全なのだ。

 

 母胎の子宮は衣食住が保証された、胎児の生命が守られる

生活環境が整備され、胎児が生きる基本的な住いだった。

 

 更に羊水の役目は子宮内を適温に保ち、胎児の体を包み込

む無菌状態を羊水が確保し、医療の役目も担った。

 

 母胎の機能は人間の生活基盤の原型なのだ。

 

 母の袋の中は生活基盤の衣食住も整い、胎児が社会生活に

旅立つに相応しい、学習が可能な理想郷だった。

 

「のう、晃一、母やんのお腹、凄いじゃろが」

 

 生活環境の理想的な母胎の機能に晃一は血湧き肉踊った。

 

           ー328ー