「親が心配しすぎると子供がだめになる」と、どの育児本にも教育系youtubeにも出てきて、おそらくそれは真理なのだとおもう。でも親が子供への心配を手放していくのってものすごく難しい。もしかしたら育児の中で一番難しいことかもしれない。

 

 

 

この夏、息子の顔にひどい湿疹が出て皮膚科を受診したことがあった。先生から「これはあせもだね。薬を出すから、これ以外は何も塗らないでね」と言われた。「お風呂上りのローションもだめですか?」と聞いたら「ローション???夏場にそんなもの塗っちゃだめだよお母さん!だからあせもになるんだよ!」と言われて「…でも赤ちゃんは季節問わず肌がべとべとになるくらいローション塗ったほうがいいって小児科で言われたんですけど…」って言ったら、「赤ちゃんはね。でもこの子はもう赤ちゃんじゃないでしょ?」と言われたときに心の底からハッとした。確かに息子はもう赤ちゃんではなかった。私はそれを頭では認識していたけど、感覚にまで落とし込むことができていなかった。

 

 

 

 

女性は子供を産むと、最初の半年間くらいは24時間子供に付きっきりの生活が続く。少しでも目を離した隙に窒息死してしまうくらい赤子は脆弱だ。だから”絶対に目を離してはいけない”という多大なるプレッシャーから育児はスタートする。月日が流れるにつれて子供は成長していくけれど、一番最初に強迫観念に近いプレッシャーをかけられた母親はなかなかそこから抜け出せない。つまり、いつまで経っても子供を赤ちゃんのように思っては心配し続け、過剰にお世話をしようとしてしまうんだ。

 

 

 

 

それに私の息子は1歳過ぎるまで歯がはえなかった。だから離乳食の時期がものすごく長かった。また息子は1歳10か月まで歩くことができなかった。どこにつれて行くにも抱っこが当たり前だった。息子の体内機能や知能はどんどん成長していたにも関わらず、私が外側から息子に接する際は”赤ちゃんのまま”の状態がつづいていた。だから私は息子のことをずっと赤ちゃんみたいに思っていた。

 

 

 

公園に連れて行っても、自分で滑り台をすべれるなんて思ってもいなくて、いつも私が抱っこして一緒に滑っていた。以前も書いたけど、保育士さんから「たまきくんはもう滑り台を一人で登って一人で滑れますよ」と言われたときはぶったまげた。もっとたまげたのはSNSで2歳児の食事風景を見ていると、みんなプチトマトがそのままお皿に出されている。信じられないと思った。私はいまだにプチトマトの皮をむいて、半分に切らないと息子には怖くて出せない。「こんなの喉に詰まらせたら死んでしまう」と本気で思っているからだ。

 

 

 

と言うのも以前テレビで、1歳半くらいの男の子が巨峰を喉に詰まらせて窒息し、命は助かったものの脳に重度の障害が残ってしまった家族の特集がされているのを見た。お母さんの後悔、苦悩はすさまじいものだった。その姿が私の脳裏に焼きついて消えない。だから巨峰もトマトも皮をむいて小さくしないと私は息子に出せなくなった。

 

 

 

そもそも息子は歯が生えるのが遅かったので、咀嚼ペースも半年くらい遅れている。だから今はまだほかの2歳児のようにプチトマトをそのまま食べることができなくても仕方ないのかもしれない。でもじゃあ、いつになったら私は息子にそれをトライさせられるのだろうか。歯が全て生えたら?3歳になったら?4歳になったら?そしたら私はトライできるのだろうか。正直言ってぜんぜん自信ない。

 

 

 

だからこそ私には保育士さんの手助けが必要だとおもった。心配ばかりする私が、息子をいつまでも赤ちゃんみたいに思っている私が、べったりと息子の側にいてはいけないと思った。もしも私が家でずっと息子を見ていたら、息子はいまだに滑り台をすべることなどできなかっただろう。なぜならそんなこと怖くて私にはとてもトライさせられなかったから。

 

 

 

息子はもう赤ちゃんじゃない。分かっている。歯も生えてきた。分かっている。ぎこちないけど歩けるようにもなった。分かっている。遅れている部分はあるけど特別なケアが必要な子ではない。分かっている。分かっている。頭では分かっているんだけど、あまりにも周りより「できない期間」が長すぎて、ケアが必要だった時期が長すぎて、急に普通に接しろと言われてもうまく切り替えられない。

 

 

 

私には息子を心配しないなんて無理だ。息子を年相応に扱っていくなんて無理だ。息子はどんどん急成長していくけど、そのペースに合わせて切り替えていくなんて無理だ。ごめん。絶対できそうにない。だからせめて私は息子のために、息子を自分から手放していこうと思う。どんどん他人の手を借りて、客観的に息子を見られる人に育児を託していく。

 

 

 

もしかしたら息子は保育園ではもうプチトマトをそのまま食べているのかもしれない。だって歯が生えていないときから野菜スティックを与えられていたもの。連絡帳に「野菜スティックはまだ食べられませんでした」と書かれているのを見たときには「さすがに無理やろw」と笑ってしまったけれど、でも「だからもう出さない」じゃない。保育士さんは「もう少し柔らかくしたら食べられるかもしれない」「今日こそは食べられるかもしれない」と何回だってトライし続けてくれる。もちろん喉につまらないようにちゃんと見守りながら。そのおかげでいつの間にか野菜スティックが食べられるようになっていた。

 

 

 

最近はトイトレと着替えトレーニングも少しずつ始めてくれている。2歳児なら当たり前なのかもしれないけど、ほんの数か月前まで歩けなかった息子がトイレに行くとか、着替えをするとか、私にはイメージすることもできなかった。ハイハイしている赤ちゃんに誰もそんなもの求めないのと同じように、最近までハイハイしていた息子に求めることは「まず歩くこと」であってそれ以外は考えられなかった。歩けなくても滑り台が滑られるかもしれないなんて、私は考えもしなかった。

 

 

 

息子のことを見ているようで、私はちゃんと見ることができていない。私が見ているのはいつだって自分の心配を通しての息子の姿だ。それが良くないことだと分かっている。でも客観的になれない。それが毒だと言われても、できない。私にせめてできることは息子から離れることだ。客観的に息子を見られる人に育児を託すことだ。そして余計な口出しをしないことだ。信頼できる保育士さんや病院の先生のアドバイスは素直に聞き入れる。「母親の私が一番この子のことをわかっている!」なんてうぬぼれたりもしない。母親ってべつに、そんな万能でも有能でないもの。

 

 

日本はいまだに60%の人が「子供が三歳になるまでは家で母親が育てるべき」と思っているそうだけど、私みたいに毒になるだけの母親もいるので、お母さん本人が自宅保育を望まない限り、他人の手を借りることは何も悪いことだと思わない。結果的に子供が健やかに育てばどっちでもいいんだと思う。それに一人っ子の息子にとって保育園で同学年の子たちと関われるのは本当に良い経験だ。2歳児にもなると、何かできない子がいると周りの子が「がんばれ」と励ましたり、自ら手助けしたりするらしい。そして保育士さんが励ますよりも、周りのお友達に励まされたほうが本人もやる気になるそうだ。子供同士のコミュニケーションの力ってすごい。

 

 

 

もともと母親業が向いてない私にとって、保育園は本当に本当にありがたい場所。感謝してもしきれない。息子が3歳になったら習い事もはじめて、保育園以外にもどんどん居場所を増やしていきたいと思う。息子を客観的に見てくれる人の目を増やしたい。私が努力できることってそういうところしかない。何回も言うけど、息子を心配しないなんて私には無理。目の前にいるとつい息子の言動に「危ないよ」と口を出してしまうし、なんでも止めようとしてしまう…。ああもう本当に毒だわ。

 

 

 

心の底から愛しているからこそ、息子には私のいない世界を旅してほしい。

 

 

 

 

(登園時。

消防車じゃなくて自分の荷物を持ってくれないか。。)

 

 

 

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