http://www.youtube.com/watch?v=cd_YhOUJ3eA
http://www.youtube.com/watch?v=6D8zO8gwS0Q
http://www.youtube.com/watch?v=j-ERAIF47dc
http://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws
http://www.youtube.com/watch?v=ZIlZGtlTe6I
http://www.youtube.com/watch?v=ahUr1fF7ISo
引用・朝日新聞
戦時中は女優・李香蘭として日中両国の歴史に翻弄(ほんろう)され、戦後はワイドショーの司会や参議院議員としても活躍した山口淑子(やまぐち・よしこ、本名大鷹淑子〈おおたか・よしこ〉)さんが7日、心不全で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
1920年、旧満州生まれ。13歳の時、奉天放送局にスカウトされ、歌手デビューした。日本人だったが、中国語が堪能で、中国人に受け入れられやすいように「李香蘭」という芸名が付けられた。
38年、国策会社の満州映画協会(満映)の専属になる。「親日的な中国人女優」として、日本の植民地経営のスローガンだった「日満親善」「五族協和」を体現するヒロインを次々演じた。とりわけ長谷川一夫と共演したラブロマンス「白蘭(びゃくらん)の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」は大陸3部作として大ヒットした。
一方で歌手としても人気を集めた。41年に東京・有楽町の日劇で開かれたコンサートでは観客の行列が建物を何重にも取り巻き、警官隊が出る騒ぎに。「夜来香」「蘇州夜曲」などのヒット曲が生まれた。
その間、一貫して日本人であることを明かさなかったため、終戦時には、日本に協力した中国人として処罰されそうになった。裁判で日本人であることを証明して謝罪。46年、日本への帰国が許された。
戦後は山口淑子として日本映画に登場。50年、谷口千吉監督「暁の脱走」や黒澤明監督「醜聞〈スキャンダル〉」などに出た。ハリウッドにも進出し、「東は東」や「東京暗黒街・竹の家」などにシャーリー・ヤマグチ名で出演した。
69年にテレビのワイドショー「3時のあなた」の司会者として本格的に復帰。中東やベトナムなどの紛争地域に出向き、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長や日本赤軍の重信房子最高幹部らを精力的に取材した。
「数奇」という言葉がこれほどふさわしい人もいない。女優・歌手、テレビ司会者、そして政治家……。94歳で亡くなった山口淑子さんは戦前、戦中、戦後の証言者でもあった。時の移ろいとともに薄らぐ戦争の記憶も、平和を祈念する姿勢も、山口さんの発言に鮮やかに記録されている。
山口さんは2007~08年、朝日新聞社の「歴史写真アーカイブ」事業に協力、戦時下の中国各地で撮影された社所蔵の写真計126枚に証言を寄せた。
取材は延べ6時間。東京の自宅マンションで旧満州(現・中国東北部)、北京、上海などの写真を見ながら行われた。洋画家梅原龍三郎が描いた、中国服姿の自身の肖像画が壁に掛かっていた。満州映画協会の甘粕正彦理事長や俳優チャールズ・チャプリン……。著名人の話題も出る一方、街並みや市井の人々の写真に思い出を重ね合わせては、歴史的事件の現場などについて述べた。
「なんで日本人は、あんなに威張っていたのでしょうか。自分たちが『東洋の盟主』なんだと、勘違いしていたのでしょうか」
戦時中の上海。人力車の引き手が「お辞儀をしなかった」として、日本の憲兵に公衆の面前でビンタをされる場に居合わせた時を思い出し、そう語った。
幼少時代を過ごした奉天(現・瀋陽)の街並みの写真を示すと、回想は大陸の真っ赤な夕日から1938年の初訪日の印象へ飛んだ。日本へ来て「地平線はどこにあるの」と、驚いたという。71年に取材でアラブを訪問した際、砂漠に沈む夕
