当ブログで遠藤未希さんの殉死について、取り上げた。
現地の被災者から貴重な生のコメントを賜った。
公開コメントのため、敢えて紹介する。
 
被災者支援が長期化し、ボランティアが急減していると、朝日新聞1面に掲載されていた。
マスゴミはユッケのドケ座ばかり流しているが、スケールが違う。
まだまだ風化してはならない。
 
いただいたコメント等は以下の通りです。
 
 
こんにちは 「命尽きるまで避難を呼びかけた南三陸町女性職員・遠藤未来さんの死を悼んで」
をアップしたらあなたの地震に関する記事が紹介されましたのでやってきました。
私は宮城県の島金華山で地震と津波に遭遇し、がけ崩れの起きている山道を命からがら避難した後、翌日救出され、鮎川で5日間の避難所生活を送った後、自衛隊の物資輸送のジープで石巻まで送ってもらい、徒歩とヒッチハイクで50数キロはなれた自宅へたどり着きました。
この大震災で、多くの知人友人をなくしました。家を失った身内や知人はかなりおります。
命がけの避難の様子や災害の惨状、復興への動きなどを皆様にも見ていただきたいので、
「東日本大震災に遭遇して」は連続更新中です。
ぜひ訪問してみてください。お待ちします。ºï½ü
2011/5/8(日) 午後 3:55[ moriizumi arao ]
 
東日本大震災:「早く逃げて」命かけた防災無線…南三陸

 「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。

 「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。

 難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。

 遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。

 地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。

 芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。

 芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」

(毎日新聞)