静岡ライバル物語・D-sports SHIZUOKA
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(名将対談)
井田勝通X大瀧雅良

好対照のスタイルを磨いた
 憧れと、意地と、切磋琢磨。
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 何度も名勝負を繰り広げているからだけではない。
 ラテンの香り高き個人技をピッチに散りばめてゴールに迫る静岡学園高校と、強靱なディフェンスを軸に縦に速い攻めを繰り出す清水桜が丘(前・清水商業)高校。
 『攻』と『守』、あるいは『矛』と『盾』、『華やかさ』と『力強さ』の対決と要約される、言わば対極にあるサッカーの激突ゆえに、この対戦は屈指の好カードとして40年来ファンを惹きつけてやまないのだ。
 お互いに刺激を受けながら、それぞれのスタイルを築き、磨いてきた名将は、共に情熱溢れる〝サッカー人〟。静岡県の高校サッカーを牽引してきた2人が、熱く、軽やかに、その切磋琢磨を語り合った。

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――今年1月の新人戦県大会でも、両校は決勝で対戦して、静岡学園が勝利しました。
井田勝羅前監督(以下井) たまたま勝たせてもらっただけです。今年の新人戦の試合はほとんど観たけど、桜が丘の力がひとつ抜け出ているよ。
大瀧雅良監督(以下大) いや、決勝は全然かないませんでしたよ。(静岡)学園には良い選手が毎年ちゃんといる。羨ましいですよ。決勝も一方的に同じことをずっとやられました。いつもそうですから。去年の選手権は、たまたまウチが勝ってしまったんですけど。
井 準決勝だったな。良い試合だった。俺は監督をリタイアして6年経つけど、大事な試合はベンチに入る。あのときもベンチで観ていたが、わかっていたんだ、桜が丘の白井(海斗)という選手に点を取られることは。カウンターから彼にやられるぞ、と川口(修・現監督)に言っていたのにやられた。
大 他にいないんですよ、ウチには。あの試合も我々が守って静学が攻める、という構図でしたね。でも去年の選手権は、正直に言ってあの静岡学園が全国に行っていれば面白かったと思います。
井 まあとにかく両チームとも県内ではハイレベルだから。スタイルは違うけどね。だいたい準決勝か決勝で当たるな。準々決勝もまずない。
大 全国大会に行くためには乗り越えないといけない高いハードルですよ。
井 それは俺のセリフだよ。たまんないよ。高くて分厚い壁だよ。何度泣いたかわからない。夢にも見る。「チクショー」って思って。
大 いやいや、井田さんの方が笑っている回数は多いですからね。でも、ありがたいことですよ、静学というハードルを越えていった選手たちは、その後、自分をしっかりコントロールして成長していけると思いますから。
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鉄アレイを持ちリフティングしながらハードルを越えてると聞いて、真似をした――大瀧
ダッシュを百本、CKを百本やっていると聞いて、そんなにやるのか!?と――井田
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――対照的と言ってもよいサッカースタイルで、対戦はどちらが自分たちのサッカーを出せるのか興味深いですし、名勝負か多いですね。
井 ファンは喜ぶでしょうね。
大 観客は多いですね、たしかに。
井 去年の12月のプリンスリーグの試合も、桜が丘のグラウンドが一杯になった。すごかったな。
大 消化試合だったんだけどね。
井 観ていて面白いんじゃないかな。いろいろなプレーが見られるから。
大 いつも自分たちのサッカーを出せるのは、静学ですけどね。
――スタイルを確立するのに、お互いが刺激になったのでしょうか。……
大 最初に井田さんが率いる静岡学園が選手権の全国大会に進んだときの県大会の決勝を、僕は選手たちを連れて、藤枝駅から歩いて会場の市民グラウンドまで観に行ったんですよ。どんなサッカーをやるのかな、と。
井 昭和51(1976)年度の大会だね。
大 そこで東海大一に勝って、全国大会も勝ち上がって、決勝で浦和南と対戦した。あの試合の静岡学園のサッカーは、強烈なイメージとしていまも残っていますよ。浦和南は、前に速く、というサッカーで、4対5で静学は負けてしまったけど全国に衝撃を与えた。「これからの日本のサッカーはこうでなければ」という警鐘も鳴らしたと思います。自分にとっても衝撃でしたが、同じことをやってもかなわないから、違う方向、違うやり方で、ということでやってきているわけですよ。
井 当時は、静岡県の高校サッカーのベスト8は、全国でベスト4に入れるくらい強かった。事実、5年連続で選手権の全国大会で準優勝していた。自分が静岡学園の監督になったとき、強豪校が沢山あって、いま大瀧さんが言ったように、他の人と同じことをしたのではだめだと思ったんだ。藤枝東の長池監督のコピーをしても仕方がない。だから、自分の色、ポリシーというものをしっかり持って戦っていこうと。静岡 県に限らず、日本にとっても常に新しいスタイルのサッカーが出てくるというのは大事なことだと思うからね。まあでも、若気の至りでやったんだよ。
――南米スタイルはどこから?
井 日本協会のコーチングスクールのライセンスをとったとき、ドイツのクラマーさん(故人)の教えを受けた。だから、最初はドイツスタイルを学んだんですよ。マンツーマンディフェンス、パスサッカー、組織的サッカーを。その後ヨーロッパに視察旅行に行ってオランダやイングランドのサッカーを見て、日本が対等に戦うにはこういうサッカーは無理だと思った。それと、当時の静岡県の高校は強いだけではなく、様々なサッカーがあって、その中にない変わったスタイルでやろうと思って“南米”でいこうと。でも、目指した。というだけなんだけどね。
大 その根本には、井田さんが最初にサッカー部を指導されていたときの環境があると思いますよ。驚くくらい狭いグラウンドでやっていたでしょう?だから、細かな技術が備わった。当時、学校スポーツの中心は野球だから、練習グラウンド確保に随分苦労されたんですよね。そういう環境の中で工夫されたと思うし、将来こうあるべきというものを描いてあのサッカーを作った。県の予選で初めて静学のサッカーを観たときは、何でこんなにうまいんだ?と。練習を見に行った人から、選手たちが鉄アレイを持ってリフティングをしながら陸上競技のハードルを越えているって聞いて、僕らも真似してやりましたもん。
井 やったのか!?‥
大 やりました。でも、ウチの選手は越えられないからハードルのバーを壊しちゃう。で、体育の先生に怒られるんですよ(笑)。とにかくあの頃は、指導者はみんな静学の練習を観に行った。
井 俺のところにも清商(キヨショウ)の練習の情報はよく入ってきたよ。今日は100メートルダッシュを百本やったとかコーナーキック百本やったとか、フリーキックを百本やったとか。ええ!?そんなにやっているのか!と。
大 そんなにやるわけないじゃんね(笑)。
井 でも、わざわざ言いに来る人がいるんだよ。「こんな練習じゃ負けるぞ」とか言われるんだ。
大 それは煽っているだけですよ。そんなにやったらどうにかなっちゃう(笑)。
井 選手権の決勝で初めて対戦したのは、昭和53(1978)年だったな。そのときは運よく2対1で勝った。でも、翌年のインターハイの県予選の決勝では1対6で負けた。その後もずっとボコボコにされて、もうノックアウト寸前まで行った。すごいんだよ、清商は。強いし速いし決めるところを決めるし、競り合いはガツンガツン来て負けない。シュートは遠くからでも少しでも角度があったら強烈なのを打ってくる。それがまたいいところに入るんだ。我々のサッカーとは違った、“絶対的”なサッカーをする。
大 いやいや。
并 静岡学園は最初に決勝で清商に勝った年を最後に13年間、選手権の全国には行けなかった。その間はずっと泣いてたよ、酒を飲んで。悲しい酒だよ。でも、何とか歯を喰いしばって頑張ってきたんだよ。
大 何をおっしゃる。
井 清商だけではなくて、清水東も東海大一も、清水は3校とも強かった。その三強とはどのみちどこかで当たるし、大変だった。
大 その中で井田さんは、やり方を貫いてきましたからね。その静学のサッカーをひと言で言えば、「すごい」。
井 何を言ってるんだか(笑)。

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清商はすごいんだよ。
強いし速いし我々とは違う
絶対的なサッカーをする――井田
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僕も静学みたいにやりたい。
そういう思いが、腹の中に
いつもある――大瀧
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大 対戦中は、僕はただひたすら我慢をしているんですよ。で、ベンチに座りながらグラウンドではなく井田さんを見ている。何を喋っているのか一生懸命聞いていた。選手への指示の声を聞いて、何を考えているのか、どこをどういじってくるのか、ということを気にしてゲームをやっているんですよ。井田さんは賑やかですよね、ベンチで。二コニコ笑いながら選手たちと「いいぞいいぞ!」なんて叫んで。僕なんて、叱るだけでしたけど。相当な自信があるし、選手たちとのコミュニケーションができているんだなと感じながら、声を聞いていました。
井 俺もお前の顔を見ていたよ、試合中ずっと(笑)。最初の決勝戦でも。あのとき大瀧さんの顔は青かったな。実質的な采配は大瀧さんがやっていたが、まだコーチだったね。
大 そうです。無我夢中でした。
井 俺は2回目の選手権決勝だったから多少余裕はあった。どこかで「勝つな」と思いながら采配していた。その頃から図々しかったから。それが良くなかったかもしれないな。いま反省しているんだけど(笑)。
大 あの試合は、得点したのが早くて、いつか追いつかれるな、とビクビクしてやっていました。どうしようか、と思うけど、方法がない。
井 チラチラと大瀧さんを見て、このままか、動くのか、と。あのときは動かなかったな。このままならなんとかなるかなと思っていたら、PKをもらって追いついて延長で逆転したんだよ。
大 動きようがない(笑)。
井 お互い、そういうベンチでの駆け引きというのもあったわけだけど、それでもウチはそれからは勝てなかった。普通に戦ったら負けるから、あの手この手を使ったんだけどなあ。我々はテクニックを大事にしたいから、どちらかというとゆっくり攻めて、その当時はそんな言葉はなかったが、いわゆる“ポゼッションサッカー”でショートパスをしっかりつないで相手を崩そうと。でも清商には翻弄される。パパッと4、5点あっという間にとられる。
大 余分なことをしない、というのが基本なんですよ、ウチは。学園は、ボールを動かして相手が寄ってきたらそこからパッと出ていく。原点というか、ハート、思想のところが違うんですよね。井田さんもよく本を読まれるけど、僕は漢文が好きなんですよ、余分なものがない。
井 たしかに漢文はないよな、余分なものが。
――スタイルを貫く上で、迷いや揺らぎはなかったのですか?
井 揺らいだ揺らいだ。何回もやめようかと思った。いつか清商みたいに、すごい選手を集めてやってみたいなとか。全国では市立船橋とか国見とかが優勝しているでしょ。ああやれば勝てるからやろうかなと思ったり。清商や清水東に散々負けた後、どうするかなと考えたけど、やはりスタイルやポリシーは絶対に崩してはダメだ、よし、もう一回やろう、と。その繰り返し。でも悩んだよ、そこは本当に。大瀧さんはないだろ?強かったから。
大 ありますよ。僕も静学みたいにやりたいんですよ。お腹の中にあるんですよ、そういう思いがいつも。全部覚えてますよ、静学のどの時代にどういう選手がいたか。例えば向島建とか、速くて小さくてうまい選手がサイドから来るんですよ。大島僚太(現J川崎)が中盤でどういうプレーをしていたかとか。痛い思いをしているから覚えているし、ああいう選手がいたらいいな、と思いながら対戦しているから。
井 大島がいたときも選手権の決勝で当たったな(2010年)。そのときは勝ったが、翌年に風間八宏(現J川崎監督)の息子兄弟の弟が清商にいるときの決勝でもコテンパンにやられた。
大 あれは前半の静学のチャンスが決まっていればゲームは変わっていた。僕はあのとき60歳で教員生活の最後の年だったんです。井田さんが勝利をプレゼントしてくれたんでしょう。
井 いや、女性にはプレゼントするけど、男にはしないな、俺は(笑)。
大 全国大会に初めて出場したときは、親父の八宏がいて、退職する年には息子の宏矢がいて全国大会に出られたんです。
井 それは面白いな。巡り合わせだね。思い出したけど、俺が一番悔しかった試合はね、2000年の草薙での選手権の決勝かな。リードされて一生懸命頑張ったけど、残り数分でPKをとられてどうしようもなくなった。あれは悔しかった。清商には佐野裕哉がいた。
大 裕哉は骨折していたけど、決勝はもう負けてもいいから出そうと。彼が中心のチームで3年間やって来たし、まして相手は静学だから。決勝までの試合は何とかなるだろうけど、静学というハードルは簡単には越えられない。でも、これがまた不思議なんだけど、静学相手だとウチはガッとチームが一丸になるんですよ。

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清水商業と静岡学園が
壮絶な試合を一番たくさん
やっているのは事実――井田
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井 ほらな、だから俺が何度も泣いてるんだよ(笑)。こうやって話してみるとわかるんだよな。やっぱりいかに俺が負けているか。負けたゲームほどよく覚えている、悔しいから。
大 そうですね。
井 おまえは悔しいわけないじゃん。
大 悔しい悔しい。
井 酒飲んで泣いたりしないだろ?(笑)。そもそも酒飲めないんだよな。
大 そのかわり大事な試合に負けたときはひと月くらい家でボケーっとしている。女房に「いい加減サッカー辞めたら?」と、よく言われた。でも静学に負けたときだけは、カラッとしている。仕方ない、かなわないっていうのがあるから。不思議ですよ、これも。尊敬しているからでしょうね。
井 誰が?
大 僕が、井田さんを、尊敬している。
井 いやいや、そんな尊敬されるような人問じゃないですよ。
大 私生活は知りませんよ(笑)。でも、尊敬しています。
井 清商は、エスピノーザというブラジル人コーチがいたときがあっただろう。あのときは、強さや速さに静岡学園のようなサッカーがプラスされていた。素晴らしいチームだったな。ある意味、あのとき清商のサッカーが変わった。応援もサンバになって、それに合うサッカーをやっていた。大瀧さんは、そういう風に勉強する人。自分が持っているものと融合させて、うまくチームを変えることができる。大したものだと思ったよ。
大 それは、言ったように静学のサッカーが理想だから。名波(浩・現J磐田監督)が1年生のときだったかな。ブラジルに遠征してボコボコにされたけど、日本に帰ったらそこで吸収したことも忘れてしまうだろうと。ならば、向こうの考え方を持ってきてしまうのが一番楽だなと思って、エスピノーザに来てもらったんです。もうひとつは、僕自身が行き詰っていて、非常に良い選手が揃っているけど、彼らに何を注入したらいいのか悩んでいて、解決するには自分でやるのではなく、外からコーチを連れてきて思想を植えつけようと。そういう考えに変えていったんですね。
井 それがすごい。ボールの扱い方も戦い方も変わった。単に速いサッカーではなく、中盤でボールを触ってゲームを作っていた。黄金時代ではないかな、メンバー的にも。
大 そうですね。名波や(藤田)俊哉とかがいて、その前は三浦文丈がいて。
井 あのチームは、ずっと見てきた清商の40年の中でもとくに素晴らしい。俺は、このチームはどうすることもできないと観念した。完全にお手上げ。だからね、早く死なないかな、と思った(笑)。
大 いやいや(笑)。僕は、井田さんに対してそう思ったことは1度もないですからね(笑)。後にくっついて歩いてきているだけだから。この人、何を考えているのかな、と思いながら。そういう方からそんな風に思ってもらえるのは幸せですね。でも、指導者はみんな思っていますよ、静岡県に井田さんがいてくれてよかった、と。ああいうチームを作って日本のサッカー界を変えてきたのは、この人ですから。だから、尊敬しているんです。
井 何か誤解していないか?(笑)。まあ、お互いさまだな。世の中というのは巡り合わせとか、縁というものがあって面白くなる。大瀧先生や、切磋琢磨してきた人たちがいるから、いまの自分もあるわけです。
大 ひとつ強烈に覚えていることがあるんだけど、全国大会に進んだチームの監督は指導者講習会に行くでしよ。清商が県大会で優勝して自分が行ったときに、井田さんもそこに話を聞きに来ていた。打たれ強いな、と。こういう人は恐ろしいな、とも思いましたよ。この笑顔の下に相当強いものを持っているんですよ。
井 なんだか腹黒いみたいだな、俺が。(笑)。腹は真っ白ですよ、綺麗なもんですよ(笑)。
――お互いにライバルという気持ちはありますか。
大 ない、僕はない。
井 “ライバル”というのは世間が作ることであって、我々に特別な意識はない。でも、長い歴史を冷静にみてみると、結果的には、清水商業と静岡学園が壮絶な試合を一番たくさんやっているのは事実だから、そういう意味ではライバル。俺はそういう発想だな。
大 僕が静学をライバルというのはおこがましい。でも、どうしたら静学に勝てるのかということで、チームが成長していくのも事実ですね。ただ、僕は井田さんがあと10年やるなら、絶対にやる。井田さんが消えるまでやります。あ、現場からですよ(笑)。
井 現場からはもう消えてるよ(笑)。
大 僕もですけど。国見高校(長崎県)の小嶺先生もそうじゃないかな。井田さんがやっている間は辞めないという思いがあると思いますよ。
井 そうかな。
――全国でのライバル校は?
井 いまは静岡県はダメですよ。どこがライバルなんて言えない。1回戦で負けるんだから。情けない話だけど。俺は川囗には言ってるよ。「俺が生きている間に日本一になれ」って。
大 静岡県が勝てなくなっているのは、2つのプロクラブがあって、その下部チームに良い選手がいくというのもあると思いますね。でも、静学には今年エスパルスジュニアのFWとか、優れた選手が入ってくるでしょう?あのサッカーに憧れて入ってくるわけですよ。ウチにはそういうものがないんですよね。
井 大瀧雅良に憧れてくるんだよ。
大 いやいや、ないない。
井 Jリーガーや日本代表を一番多く育てているんだから。大瀧さんに教わったら日本代表になれるとか、静岡県で一番になれるという憧れがある。それは間違いないですよ。また静岡が強くなるには、大瀧さんみたいな個性のある指導者というのが、大事なんだ。
大 それは、井田さんでしょう。

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どうしたら静学に勝てるのか
ということで、
チームが成長していく――大瀧
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井 いま、サッカー協会のマニュアルのもとで、画一的な指導を行なう人が多いのは、ちょっと問題だと思う。
大 そうなってしまっていますね。
井 何も個性がない。どのチームも同じことをするから。恐ろしいことだよ、これは。マニュアル通りにやることは、一見良さそうだし、勝てると思うかもしれないけど、そうではないな。やはり監督の個性はすごく大事だし、その方がやりがいがある。戦う上でも。
大 選手にもその子の色というものがあるから、それをどうチームにいかしていくか。
井 それが大事なんだよ。いまは型どおりに教えて型どおりにするチームが多いんです。良い選手はいるんだけどね。
大 いますね。
井 個性のある指導者がいない。静岡県が強かった頃は、監督の個性でそれぞれ違うサッカーをやっていた。だから面白かったし、切磋琢磨していけたんだよ。
大 そうですね。
井 出てきて欲しいね、そういう指導者が。

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井田勝通(いだまさみち)
1942年3月3日生まれ。満州で生まれ焼津市で育つ。静岡高校サッカー部時代に後の藤枝東を率いた長池実氏に教えを受ける。慶応義塾大学に進学しサッカー部で活躍。卒業後、静岡銀行に就職したが1970年に退職。日本サッカー協会コーチングスクールの認定を受けて公認指導員となり、1 972年12月に静岡学園高校の監督に就任。プ囗の指導者となり、個人技を駆使したサッカーを打ち出して高校サッカー界に旋風を巻き起こした。2008年12月に教え子の川口修氏にバトンを渡して監督を退任。現在は、『BANREYORE岡部サッカークラブジュニアユース』のゼネラルマネージャーとして、小学生世代の育成にあたっている。

大瀧雅良(おおたきまさよし)
1951年9月15日生まれ。清水市出身。清水商業高校サッカー部で、後に清水東高校サッカー部部長を務めた苫米地康文氏の指導を受ける。3年時には主将として全国高校総体準優勝に貢献。拓殖大学を経て1974年に母校に商業科教師として赴任し苫米地の後を継ぎサッカー部監督に。強豪『キヨショウ』を築き上げ、多くの選手をJリーグや日本代表へ送り出している。2012年3月に定年退職した後もサッカー部を指導。翌年、清水商業高校は庵原高校と統合され清水桜が丘高校と改名。現在、教え子の風間八宏(現J川崎監督)とともに「清水スペシャルトレーニングセンター」を立ち上げ若年層の育成も行っている。