こちらは現地時刻7月12日夜中の12時をまわったところでございます。


本日のブログはちょいと重いかな。



実は、今年の一月末に母を亡くしまして。
20年ぶりに日本へ帰国していた。
母はもう私の家族の中でたった1人日本に残された人間だったので、私が急遽帰国し全ての処理に追われた。

母とはちょくちょく連絡はしていたが、最後に会ったのは20年前。
息子が2歳になった時だった。
それを最後にわたしは帰国していなかった。

約6年前に最愛の13ヶ月下の妹が他界した。なんの予兆もない突然の死だった為、私は帰国を断念した。
当時、亡き母は1人で妹の葬儀を済ませ、それからの6年をたった1人で生きてきた。享年85歳。

母は妻子のある人間に騙され、わたしと妹を産んだが、結局相手からは何もしてもらえず、1人でわたしら姉妹を育ててくれた。
わたしたちは父親であるあの男からは認知もされず、幼少から母子寮で育った。

最愛の妹は26歳の時、付き合っていた男性から結婚はできないと言われ別れを告げられた。
当時、あたしらの様な私生児にとって結婚はかなり難しかった。
結局それが原因で統合失調症を発症し、亡くなる50歳までの間、母と同居していた。
あたしも同じ様な境遇ではあったが、彼氏とはこっちから別れてやり、その後米国へと逃亡することになる。
こっちでは日本の様に私生児がどーのなんてことはなかったから。

妹が発症してからというもの、あたしと母との仲は増して険悪になっていった。


「たった1人の妹。お前が殺した様なもんだ!!人殺し!!」
そう言って当時罵った。
許せなかった。


自分の愛を貫きたいが為に子供達を犠牲にしやがって。。と。

しかし妹が亡くなってからというもの、母は段々と弱り始めた。
元々糖尿持ちだったため、インスリンが必須だったが、その治療も辞めてしまう。
結局その事が原因で心不全となりこの世を去った。

85年の人生の中で、たった1人のあのクズの様な男だけを愛し、他界したのだ。
そう、あのクズ。


今年の正月はいつもの如く電話をし、今年息子が大学卒業だから、一緒に帰るからね。待っててよ。今年もよろしく。それが最後の会話となった。


人生たった1人の、しかも叶わない愛のためだけに生きるなんてことができるのか。
あたしはいつも母親の心情が頭をよぎる。


母の死に顔は綺麗だった。
発見されたのは死後約1週間経過していたが、冬だった事も幸いし腐敗もそう進んでいなかった。

あたしは聞いた。

「幸せだったの?ねぇ。。なんでこんな人生選んだの?」


生前、「あなただけは幸せになりなさい」と言っていた母。


あたしは母や妹のことを気遣っている暇はなかった。そのまま突っ走った。
同じ様な人生を送りたくはなかった。


そして今。。
一人ぼっちになった。
一緒にすがる様にして生きてきた家族皆いなくなってしまった。

もう日本に帰るところはない。
日本人なのに。

唯一あたしに残っているのはあたしの息子。
あの子1人だけになってしまった。