1981年のある日のこと、私のある投書が「週刊プレイガール」に載った。

 

その内容は、あるスポーツの中での暴力事件に関する批判であったのだが、ネタとしてどうかとは思ったが「暴力はやっぱり遺憾だろう」と考えて投書することにしたのである。

 

・・と、その前に、私の問題意識に関する話を少々。

 

 

私の幼少期の1960年代の時代状況と問題について、私的に簡単な説明をすると、

 

当時のアメリカの主な出来事として、

アポロ計画、ケネディ暗*、ベトナム戦争、公民権運動、キング牧師暗*、ウーマンリブ、・・・・

 

 

 

・・

 

 

ここでブルース・リーの話題も少し。

1960年代激動のアメリカ合衆国に置いて、武術と映画芸術の世界で理想と野心に燃えるB・リーは、少しずつ成功の階段を上り始めていた。当時、ハリウッドでのその地位は、確かなものになりかけていたのである。

しかし東洋人による主役の夢は叶わず、香港への帰還と大成功経由でワーナーとの合作「燃えよドラゴン」が制作されて、ここに「歴史的な伝説が誕生」したのである。Σ(゚□゚;)

 

 

 

・・

 

 

 

1970年開催のEXPO’70。私は思春期。

 

1970年前後の時代状況というと、

公害問題、オイルショック、交通戦争、三島事件、あさま山荘事件、・・・ゴジラ対ヘドラ、・・・

 

自然に帰れ、バッグパッキング、サバイバル術、田舎暮らし、・・

 

・・

 

私的に思い出すことはそれこそ沢山、本当に幾らでもあるのだけれど、書き出したら切りがないし、収拾を付けるのも大変なのでもうやめます。

 

 

 

・・以下、本文。

 

 

 

 

 

 

話は1981年の初夏のこと。

 

いつものようにある日、本屋の店頭で「週刊プレイガール」を手に取った私は、読者のコーナーをそれとなくめくっていた。すると・・

 

私の内なる声

「・・・・?」

「あれ?これってどこかで見たような言葉、見たことのある文面?世間には同じような考えの奴がいるんだな・・・・」

「あ、あーっ!!」

「こ、これは、俺の書いた投書じゃないか!!!俺のが載ってるーっ!!!」

 

と狂喜乱舞して・・はいません。

 

それで喜びがどっと湧いてきて、早速そのもはやお宝となった「週刊プレイガール」をレジに持っていき購入。車中の人となった。

 

帰り路、喜びをかみしめながら

「簡単に載るもんなんだな。ふーん。ま、俺にも才能が少しはあるということか。」と、一人悦に入りながら、無事に帰宅した。意外とすぐに冷めたけど。(内容が内容だけに)

 

こうして最初の投稿が掲載されて、少しだけいい気にもなったのであるが、人間万事塞翁が馬。利害得失表裏一体。・・であり、思わぬしっぺ返しに遭うことになった。

 

 

というのも、その投書の内容にクレームを付ける不良の投書が、その翌々週の「週刊プレイガール」に載ったのだ。

それは「指摘した暴力を否定して正当化するもの」であり、到底容認できるものではなく義憤にかられたのだが、しかし不良の妄言を採用したのは担当記者であり、

問題の矛先は、そのある意味、恩のある記者に向けられる事態になったのである。:大げさな文章。(*ノωノ)

 

それで真に正義感の強い私は、なんとそこの編集長宛てに抗議の手紙を送ることに決めて実行したのである。Σ(゚□゚;)・・

 

 

クレーマーなの?

そのわざわざ暴力否認の投書をした不良のことですね。

トラブルメーカー?

その暴力犯と、それを誤魔化そうとする不良のことですね。

 

 

 

 

 

 

 

それでその後どうなったのかというと・・・

省略。

 

いや、省略は取り消し。

 

 

 

 

1981年の秋、その大事件は起きた。

 

江山の入団の経緯への無知な不正指摘、それに関しての顛末記。それに自身、初夏の件も含めてPG誌上で深く関与。Σ(゚□゚;)?!

 

 

 

・・

 

 

訂正:正確には「江山事件についての批判への批判」でした。<(_ _)>

この件については、別のブログ記事で詳述。

 

只入団の経緯で感情を害した記者達が、当時権利のあった沢町賞の選考で圧倒的成績の江山を外して問題となり、現在のOBによる選考に変更になったという経緯がある。

 

このドリフト制度と育成の問題、許人叩きの偏向報道の問題は、現在もNPBに存在。:二重基準。◯止。

 

 

 

 

 

つづく