真田幸村戦死の地としっかり書いてますね。
細い路地を抜けていくと境内に出ます。
まず目に入ってくるのは真田幸村公の銅像と討死の地を示す大きな碑です。
1615年5月7日。大阪冬の陣では真田丸を活用し、散々徳川軍を翻弄した幸村でしたが、停戦交渉後の徳川家康の策謀により、大阪城の堀は埋め立てられ、裸城同然となった城から打って出る形になり、安居神社からほど近い今では天王寺公園内にある茶臼山付近に陣を構えました。
そして幸村は徳川軍の本陣の家康に向けて強烈な突撃を試みます。
一時は家康が切腹しようとするまで追い込みますが、柳生宗矩の活躍などで押し戻される形となります。
それにしても徳川家康に取って真田は因縁の相手です。やはり徳川家康も散々苦しめられながら学ぶところも大きかった武田信玄に幸村の父である昌幸は鍛えあげられたからか、家康は真田には何度も煮湯を飲まされます。
徳川軍が多勢で真田の本拠地である上田城を攻めた第一次上田合戦では手痛い敗北を喫し、関ヶ原の戦い前に中山道を進む徳川本軍は上田城を攻めあぐね足止めをくらい、そして今度も家康総決算の戦いである大阪の陣で命を落とす寸前まで追い込まれます。
それでも、家康は幸村の事を「日本一の兵」と称え、兄の信之の真田家は存続させ、真田家は信州松代の地で明治維新まで連綿と続く事になります。やはり家康は同じく武田信玄に鍛えあげられたもの同士の真田の実力を評価していたのではないでしょうか。
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徳川軍に押し戻され、大勢を立て直そうと休息していたこの松の下で幸村は討死します。
享年49歳。
それにしても、幸村が最後まで戦い続けた原動力とは何だったのでしょうか。
家康に国をやるとまで言われても従わず戦い続けた思いとは何か。
真田家自体は明治まで残りましたが、あの幸村の最後の奮戦が無ければ真田はここまで人々の記憶には残らなかったかもしれません。
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奥に行くと安居神社の本殿が静かに佇んでいました。