気持ちは冷めないうに書いた方がいいって言うけど、今になってしまった。
映画館に向かうバスの中から書いてた。その時も、今も、多分あまり変わってないと思う。
ずいぶん前に、モーニング娘。を好きになりました。正確に言うと、道重さゆみが好きなモーニング娘。を好きになった。またその中でまーちゃんのことを好きになったりした。いつでも道重さゆみというフィルターを通してモーニング娘。を見ていたわけではないけれど、でも、モーニング娘。が好きだと思う気持ちには、道重さゆみというフィルターが常に一枚あるのだと思う。さゆ無しにモーニング娘。を語ることが、わたしにはできない。
きっかけはさゆのブログでした。暇を持て余して覗いたさゆのブログで、写メのさゆのかわいさに驚いた。この際、自分の好みとか好きな顔立ちとか、そんなことはどうだってよくなるくらいにさゆは完璧にかわいった。見つけたという焦燥感すらない。わたしは写メだけで、さゆのことを好きにならずにはいられなかった。こんなことは初めてだった。ドキドキして、さゆの可愛さに感動した。感動したのは、さゆの佇まいに対してだと思う。なぜなら、ここまで完璧なかわいさ、それもきっと作られた(意識した)かわいさを持続しているとは一体どんな精神を持った人なのかと、わたしのさゆへの興味はそこから始まったからだ。それから遡ってさゆのブログを見てた。さゆはいつも自分で完成させた世界の中にいた。これがアイドルなのか、とはその時は思わなかった。
さゆは、変に心を鼓舞したり波立たせたりするブログを書いたりしない。そういうトークをしたりしない。だからさゆへの妄想は膨らむに膨らむし、自由に解釈させてくれるさゆの佇まいにはいつも安心する。
さゆみのことを好きなみんなが好きだと言うさゆのそれに感服する。損得勘定をわきまえているかどうかは分からないけれど、これはものすごい契約であり取り引きだと思う。それでも最終的に、さゆみのことを見つけてくれてありがとうだとか、さゆみのことを好きなみんなが好きだと言うさゆは本当に女神さまみたいだと思う。
わたしの好きな道重は、今日も黒髪ロングでかわいいなあ。と、毎日ブログを見て思っていた。さゆは一日2回くらいブログを更新してくれるから、わたしは毎日5回は確認していた。ブログ更新されてるかなあって、それが日課になってた。さゆが今日もかわいくてわたしは幸せ。
さゆが卒業するまで、実はいつも道重と呼んでいた。さゆって呼んだことは数えるほどしかなかった。名字で呼んでいたのは単に、ミチシゲという響きが好きだったからだと思う。後輩がさゆを呼ぶときの「ミチ(ニ)シゲさ~ん」には安心感があるような気がしていた。それも好きだった。でも卒業ライブが終わってからは、ミチシゲよりもさゆと呼びたくなった。
ファンのことを変な人たちと呼びつけたさゆの顔はなんだか嬉しそうで満足げに見えた。
さゆが娘。を卒業した今、さゆのことをアイドルとしてめちゃくちゃ愛でたい。今までは、他の娘。メンバーと同じようにさゆのことを慕いたかったのだと思った。でも今はただただ愛でたい。さゆがいっちばんかわいい。
けれど、さゆは徹底的に与える側の人間で、準備を怠らない人で、わたしはさゆのことを尊敬せずにはいらなれない。そういう意味で、さゆはわたしの手に負えない位置にいる。さゆに対して敬虔な気持ちを抱きます。これから、敬虔な態度を忘れないように気を遣いながらさゆのことをアイドルとしても愛でるという技術を身につけようと思いました。