あんパン2世の「感謝と謙虚に缺くるなかりしか」 -5ページ目

あんパン2世の「感謝と謙虚に缺くるなかりしか」

海軍五省を自分なりにもじりました。
まあ、毎日がんばろうってことです。

震災のことは毎日なにかしらで思い出します。

正直、あの時何にもできなかったし、今も何もできない自分にとって、唯一のできることは「忘れないこと」だからです。



震災の日は東京にいて、いろいろありましたが、そのせいもあってか、なにか、広く震災に関して「がんばって」いる人や、映像なんかを観ると泣いてしまいます。
ほぼ確実です。

昔「10秒以内に泣いたらなんたら」って番組がありましたが、いけると思うくらいです。



まぁそれはジョーダンですが、




「あまちゃん」の最後のほうは涙無しには観られません。



地震に負けないぞってがんばる北三陸のみんなをみて、
悩むアキや鈴鹿さんをみて、


当時の記憶を重ねて、おれはなにもできなかった、と思う自分がいて、
泣けてきます。


だから、忘れません。

忘れません。





デュワ!






この賢島のある英虞湾、北三陸と同じリアス式海岸です。





赤ちゃんをあやすのは大変ですが、見ていてあきないものです。

兄夫婦が出かけたので、弟と父とお守りしてたんですが、なかなか情緒不安定でどうしようもなく、ちょっとですぐ泣き初めて途方に暮れていました。

したら、仕事終わりの母
(自分の。赤ちゃんのではない)
が帰ってきて、抱っこしたら、げぼっとげろをすこし吐きました。

そのあとはもう機嫌がめちゃくちゃ良いのなんのって。
メチャクチャ足をばたつかせ、手を大きく動かし、アタマもあっち向いたりこっち向いたり。


おそらく、俺らには吐けず、気持ち悪いのがずっと続いていたんだと思います。んで、うちのおかんなら吐くことができて、気持ちよくなったんだと。




むかしむかし世話した小さい弟のことを思い出しました。

そう言えば、やつはこのまえ成人式に行ったばかり。




んん。しみじみしじみ。



デュワン!
兄夫婦が甥っ子をつれてやってきました。
そう、Owsomeなあいつです。

そのため、祖父母もうちにやってきて、みんなでご飯を食べました。




メインは祖父母が正月にはまった、
近くのスーパーで売っているお肉でのしゃぶしゃぶ。

某有名ブランド牛で、A4ランク。
さすがにうまい。
(しかし今回は裏方に徹したことと、兄夫婦によく食べさせたら、自分が食べ損ねた。
灰汁取りですくった、あくまみれの切れ端だけにはありつけたが、あくまであくまみれ。あまりうまくながった。)



それからこれまた祖父母絶賛の白菜と豚肉のはさみ鍋(いわゆるミルヒーユ鍋。)
親父が作った「どでか白菜」を丸々一個以上使い、鍋二つ分になった。
これは一口だけ食べれました。

そして…なんだっけ…スシローでなくて、似たような有名な寿司チェーン店のお持ち帰り寿司。

あーわすれた。


準備はなかなか大変でしたが、美味しそうに食べていただくのが一番うれしいです。

招待する側ですから。
招待された側だったら何もしないんですが、いや、何もしない自信があるので、する側ならとことんしますよ、それゃ!!


と、そんなこんなで1日が終わってしまいました。




オーサムは相変わらずかわいいです。
おねえさんもいい人やし。

兄はいらっとするし、正直話したくもないもんですが、そういうわけにも行かないですし。

多少は大人ですから…






ことばを一つ覚える度にひとつ大人に近づいて、
しかし、絶対に覚えられないことばがある…

とそんなふうの歌詞の唄があります。



んん。


産まれて半年も経たない赤ちゃんと、85歳になる祖父母。

その間にいる自分たちや父、母。

みんなで一つの食卓を囲みご飯をたべている。

限りなく「子ども」な子どもと、限りなく「大人な」子どもと、中途半端な子ども。


なかなか考えだしたらおもしろいなぁと思いつつ。




デュワ!





「」というのもひとつのことばなんだとおもいます。




賢島の海にて。
お伊勢参りしてきました。










いま、帰りの電車の中ですが、


ただ思うことは一つ、

「神さま」はいらっしゃるってこと。



いるんですね。




もう少し考えたことを言うと、


どんな「神さま」であろうと、
「神さま」がいるとか、
いないとか、考えているのは、
自分たち人だけ、いや正確に言うと、考えたことを言葉などで伝えることができる人間だけだと考えられます。

動物たちが信じてるかどうかなんてわかりませんから。


そうすると、神さまは人間たちの「こころのなか」に現れている。

「こころ」をどう動かすか、
どう使うか、
「こころ」でなにを考え、何を伝えるか、などなどは、
その「こころ」をもった人にしかできません。



ならば、「神さま」がいる、っていうのは、そう考えた「本人」のなかのできごとでしか過ぎない。


例えば、宝くじを買って、当たりますようにと神さまにお願いして、
その後宝くじが当たった人の中には、神さまがいると考える人がいると思います。

しかし、反対に、当たったけど神さまとは関係ない、自分の日頃の行いが良いからとか考える人もいると思います。

つまりその人次第…


ということは、
「信じる者は救われる」
というのも、「神さまを信じたがら救われる」
というわけではなく、

何かしらの原因

(なにかあきらかな原因もあれば、
もちろん偶然もありうる。ただ偶然を「神様という名前のだれか」が起こしている因果関係はない。
偶然は「偶然」であり、それ以上でもそれ以下でもないということ)

によって救わた人がいて、
その救われた理由を、神さまを信じていたからという理由にした場合、
それは、
「神さまを信じていたから救われた。」
ってことになるんだとおもう。


そこで、そんな信じる対象を「神さま」から、「じぶん」にすれば…

いや、この辺でやめます。


伊勢神宮にお参りすればなにか起こるだろうか、
いや、起こすぞって気持ちで来たんですが、


今日、伊勢神宮をきちんとお参りして(下宮→内宮の順で、あと別宮もいろいろ行きました。)、

そのあと、ほんとすぐに、帰りの電車に乗ったらすぐに、これからの人生をどう生きるかの
「道しるべ」が、突然現れたので、
ダラダラかんがえていたのでした。

びっくりしたんです。
とてもうれしいんです。

ひさしぶりによくわからない内容のブログを長々と書きました。



さて、ここまで読んでいただいてありがとうございます!

明日からはたぶん、きっと、ひとつ成長した自分で頑張っていきます。

あと、今回の一泊二日の旅も紹介していきたいと思います。


でゅーーーわ!!!!
(久しぶり!)
昨年末から普段の何倍もあった、このブログのアクセス数も落ち着いてきて、自分も落ち着きました。

誰かがひたすら過去のをよみあさってたっぽいんですが。
ひとりか、複数かはわからない。


ただ、ブログの内容はたいしたことないので…ごめんなさい。


中身はなし。