今の時代に生まれていたら、私などはどうなっていただろう。

学校のパンフレットを開けば「個性を伸ばす」教育方針の文言がまず目に飛び込んでくる。電車の中の広告に目をやると、どの学校もこぞって「個性の尊重」を教育理念に掲げている。今の時代は何かと個性が持て囃され、個性を強要されるから、子供達も大変だろうとつくづく思う。

そこまでして「個人」の「特性」を大切に扱って貰ったとしても、私のように何をさせてもごくごく平凡だった子供にとっては、すこぶる苦痛な作業だったろう。個性を伸ばす、己の特性・性質を見つめる作業、見つめても見つめても、これといって何も出てこない。おそらく、小学生にして悟りの境地にでも到達していたんじゃないか。

今の子供達は大変だ、などと他人事ではいられない。企業においても経営理念・行動指針には社員の個性尊重を唱っているから、もはや日本は一億総「個性」時代となった感がある。

「個性」とはなにか。
特段、疑問に付すほど難解な言葉ではないと思って、知ったつもりでいるのは間違いで、なかなか的確な答えが見つからない。それゆえに、各自それぞれ好き勝手に解釈している、実は危険を孕んだ単語になってしまっているのではないか、と感じる時がある。人間の価値や生き方に通じる、本来はもっと深い意味を持つべき「個性」という言葉が、軽く扱われ過ぎているところがいささか気になっている。

1つ例をあげてみたい。
調理実習の授業で、子供達にレシピを配る。何でも良いのだが、例えば、サンドイッチにしてみよう。
具材はハムとレタスとチーズ。味付けはマーガリン、マヨネーズ、マスタードのみ。材料は全て用意された同じものを使う。使用枚数やグラム数も指示されたレシピ通りに作ることとする。形は、4等分の三角形。レシピ通りの工程で、皆同じ完成形を目指して調理する。

それでも、いざ出来上がると、不思議なことに見た目も味も、各自一人一人少しずつ違ってくるのだ。人と自分のサンドイッチが違うだけでなく、自分が同じレシピで10回作っても、毎回違った味になることもよくあることだ。そしてそれを100回、200回と毎日繰り返し作り続けるうちに、自分の味が確立してくる。こうして確立した味や風合いは、誰も真似できない自分にしか作れないサンドイッチになるのだ。

私は個性とはこういうものだと思っている。サンドイッチに限らず、お味噌汁でも、ケーキでも、ピアノの音色、書道、制服の着こなし方、掃除の仕方、食事の仕方、会話の仕方、そして生き方。

授業で同じサンドイッチを作っている時に、たまに、レシピから逸れて隠し味を付け足してみたり、三角形という指示をアレンジして、キャラクター風サンドイッチなどを完成させる子供が現れる。それは確かに、レシピ通りに作ったものよりも、上質で上等なサンドイッチだったりする。そして皆、その子達の個性を称賛する。はなから人と違う事をして、即興で出来上がったものでも、それを個性だと尊重する。むしろ、現代の個性はこちらの方が主流かもしれない。ただ、私は思う。これは「独創性」ではないのか。そして「独創性」を持ち合わせた人だけが「個性」ある人だと評されているように思えて仕方がない。これは本当に、今の時代、そして未来の競争社会で勝ち残るに十分と言えるだろうか。人と違った目新しいことは人目を引くが、消えて行くのもまた早い。そこに強みはあるのだろうか。

残念なことに、昨今の教育現場では、同じ事を繰り返し繰り返し、鍛練を積み重ねる中で自分らしさを発見したり、自己を確立するまでに、時間を割いてはいられない。いつしか、即席で注目を集めたり人を惹き付ける事が重宝されるうちに、物事をを深く追求したり、極めたりする手間暇をおろそかにしていることに、社会全体が慣れてしまってはいないだろうか。

日本の伝統芸能には「型」を重んじるものが多くある。
華道、茶道、連歌、歌舞伎、能、狂言、絵画、庭

かつて日本人は基本に忠実に、稽古に稽古を重ね、日々の鍛練、不断の努力の中に精神論を説いた。決められた「型」の中に、自分にしか表現出来ないキラリと光る才能を開花させた。皮肉にも、現在の教育が失ってしまったものだ。少なくとも、個性を磨くという事は、一朝一夕で取って付けたような簡単な事ではない。

基本に忠実に、ひとつの事を極めていく。自分の強みや弱点と向き合えるまでに鍛練を重ねる。自分を知り尽くす事。それは、どの道に進んでも通用する強みになる。これこそが「個性」育成の原点ではないだろうか。

~エピローグ~
一年間の休養期間を経て、今後の動向が注目されている浅田真央選手。己の強さ、弱さと向き合い、厳しい練習を積み重ね、望んだソチオリンピックの舞台で、彼女は最高の演技を披露し、私たちに二度とない感動を与えてくれた。日本にはこうした若き才能がまだまだ溢れている。彼女の復帰を心より願う今日このごろである。
統一地方選挙2015後半戦も佳境に入り、各候補者による熾烈な戦いが繰り広げられている。

毎度の選挙の風物詩である騒がしい選挙カーや、街中に出現する選挙ポスターの掲示板は、騒音公害だの税金の無駄遣いだのと揶揄されるばかりであるにもかかわらず、相も変わらず惰性で繰り返しているのならば、これほど無能なことはない。かと言って、何を目指したのか、斬新さが間違った方向に向けられたセンスと常識を疑う話題集めのポスターも勘弁だ。街頭に立ち、マイクを握りしめ、通り過ぎる通行人に支持を切に訴える候補者と、無意識のレベルでしかその姿や声を認識しない有権者との温度差がいたくむなしい。

選挙に無関心で冷めきっている有権者の部類に属する一方で、かつて、とある小さな市議会選挙の舞台裏を垣間見る機会を得た私は、候補者周辺、選挙事務所内の身内の過度な盛り上がりが、温度差感知センサーを鈍らせ、有権者と候補者の意識格差を助長させる温床になっていることに気が付いた。

中の盛り上がりたるや、人の出入り、飾り付けから、食べ物飲み物、炊き出し部隊と、まるで夏祭りで賑わう自治会館のような活気。「何票は手堅い」「何票は確実」と好き勝手に報告される数字の単純加算、形勢有利、支持率拡大、当選確実!開けてみれば、結果惨敗、最下位落選、とこれはさすがに拙劣な運営だったのかも知れないが、しかし、中に入ってしまうと人間というのはほだされやすい生き物で、支持する理由や大義など関係無しに、今この選挙は自分達を中心に回っているかのような錯覚に陥ってしまうのである。少なくともこうした人間の脆弱性を理解してさえいれば、お祭り騒ぎの勢いに押されるがまま、素性も知らない候補者を担ぎ上げた張本人が、不祥事発覚時には手のひらを返したように身内を引きずり下ろす光景などは、見なくて済むのかもしれない。

とにかく選挙に直接関わっている向こうの人とこっちの人とでは、おそらく海外旅行を満喫してきた知人と何のイベントもなく怠惰な生活を送ってしまった自分との経験値の差に匹敵するくらいの違いが生じている。「つまらない選挙」と政治批判をするだけで何もしないのは同等に無能なのだ。

選挙を身近に、政治をもっと面白く。
こうした努力や工夫や試みはマスコミ・メディアの変遷にも見てとれる。政見放送の起源は戦後初の総選挙となった1946年のラジオによる放送。テレビによる放送はそれから20年以上後に、故青島幸男氏が当時の総理大臣・佐藤栄作氏に提案したことがきっかけで実施された。政党や個人の政策を広く世間に訴える格好の機会ではあるが、一切の編集なしにそのまま放送しなければならない決まりから、どこか小難しく、単調で、つまらないというイメージが拭いきれない。そして今日、いつしか政治や選挙の話題は、ニュースや報道番組にとどまらず、ワイドショーやバラエティの定番茶番と化してしまった。我々庶民にいかに分かりやすく伝えるかを模索し続けた結果なのかもしれないが、今日の有権者が真に求めているのは、政見放送で候補者が訴える政策の中身だということに、そろそろ気付いて貰いたいものだ。

中身は大事だが外見も大事。掲示板には候補者の顔がずらりと並ぶ。皆さん愛想笑いが爽やかだ。笑顔は好感度に直結する最大の武器。戦術上ポスターの重要性を認識していらっしゃる。そして、嘘を付けない人間の表情は、候補者が並べるどんな美辞麗句にも勝るという。人相学の本を片手に掲示板の前に立ってみると、なるほど、これなら軽く小一時間は潰せそうだ。せっかく私達の税金が使われているのだから、未読スルーでは勿体ない。せめてこんな利用価値を見出だすのも悪趣味ではないだろう。
■顔が逆三角の人…頭の回転が早い。
■目が大きい…視野が広い。機敏。物事を深く考える。
■耳が大きい…調和を重んじ、常識的で堅実な思考派。
■口が小さい…細やかな性格で職人気質。頭脳派。
え、私も出馬デキマスカ?

今度は真面目に考えてみる。
一体私は何の情報を元にどうやって投票先を決めているのだろうか。顔で選ぶんじゃやるせない。政策の中身だろ。あれ、でもそこまで理解していたっけ?皆と同じにしておけば無難てとこか。ど・れ・に・し・よ・う・か・な・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り
春先や秋口になると、毎年この時期どんな服装をしていたんだっけ?とよぎる疑問と変わらないレベルで、なんとなくやり過ごしている。自分の政治に対する姿勢とは正直こんなものだ。若者ぶるつもりはないが投票率の低下に貢献したこともある。それでも投票所へ行こうと叫ばれる。な・の・な・の・な、で当選した人達に何かを期待するのはお門違いではないか。政治は本当に難しい。皆本当に分かってるのかな。
皆様、こんな私に清き一票を!

「これくらいの おべんとうばこに おにぎりおにぎり ちょっとつめて」という童謡があった。年中さんくらいになると、ウチではおにぎりをお弁当箱には詰めないよ、と思ったりもしたが、おかずを詰める工程を想像してワクワクしたのを覚えている。
「これくらいの」と人差し指で大きさを作るとき、控えめな子もいれば、体いっぱいの大きな枠を作る子もいて、人間の欲の深さは幼少期にすでに決まっているのかもしれない。

ワクワクしたとは言え、本来の歌詞はあまりにも質素だ。この場合、おにぎりをお弁当箱に詰めないと中身がスカスカになってしまう悲しい事態を想像し、子供ながらに、このどうでもいい自己主張は引っ込めた方が良さそうだと口を噤んだ。幼少期の自分に刻み生姜という概念があったかどうかも疑問だ。そのせいか、ごま塩がやけに際立って魅力的にふり掛けられたおにぎりの残像が強烈だ。「筋の通ったふき」も分からず歌っていた。蕗を知らないので「ふーき」って何だろうと思いながら、それでも最後の最後のお楽しみに出てくるのだから、きっとおいしいに決まっていると信じていた。

悲しいかな、にんじんもごぼうもれんこんも、ましてや蕗など、大して子供の好物ではないのだが、「あなのあいた」というパートに差し掛かると言い知れぬ高揚感を覚えたので、それが全体の物悲しさを抑制していたのではないか、というのは今になって思うことだ。

それにしても、繰り返しになるが、子供向けの歌にしてはとても質素だ。この食材で作ろうとしたら、私にはきんぴらと蕗煮が限界だ。

この作詞の時代背景はよく知らないが、こんなささやかなお弁当箱によろこびが詰められた時代があったならば、物に溢れた現代よりも遥かに幸せだったろう、と無理矢理まとめに入る前に、この童謡から飛躍して次の持論を展開してみたいと思った。

こんなにも子供の好物を度外視したわらべ歌が、長く広く受け継がれてきたことへの素朴な疑問を突き詰めていたら、幼児教育において全てが簡単に映像化出来てしまう現状を危惧する心境に陥ったのだ。この歌のところどころに散りばめられた「よく分からないもの」が、子供の想像力を膨らませ、ワクワクした感情や好奇心といった情緒の発達を促すのではないか。仮に、
「・・・ちょっとつめて、ミートボールに赤ちゃんトマト、からあげくん、たこウィンナー、あなのあいたドーナツさん」などと、子供が知っている好物をめいっぱい並べたところで、栄養バランスと語呂の悪さはさて置いても、すぐに飽きられてしまうだろう。簡単に手に入り、すぐに飽きて、また新しいおもちゃが欲しくなる。子育ての現場でよく見られる光景に似ていないだろうか。

私が好きなお笑い芸人ピースの又吉さんが先日発表した話題作『火花』。
先輩神谷さんが僕に語るこんな場面がある。
「そんなお前やからこそ、人と違う表現が出来るやんけ。ええな。・・・よく中年が、俺等の頃は遊び道具なんてなかった、とか言うやん。あれ聞くたびにな、俺、わくわくすんねん。・・・ないなら自分で作ったり、考えたり出来るやん。そんなんめっちゃ楽しいやん。・・・」
けっして裕福ではなかった僕の子供時代の思い出が続き、郷愁と、悲しくて温かい家族愛がじわりじわり心に浸透してきた。

私もそんなことを言いたかったのだけれど、同じように意図した事をこうも繊細なタッチで描く人なのだとつくづく尊敬した。