忘れられる権利とは、大まかに言うと、検索結果に記事を表示しないようにしてもらう権利である。何故、そのような権利が求められているのか。それは今後の人生において、かなりマイナスになってしまうからである。どんな小さな事件でも、一回記事になってしまうとこれから生きていくにあたって検索されたら何もできなくなってしまう。なので、それに対して記事の表示を削除してほしいと言う人が、裁判まで起こしたケースもある。ヨーロッパでは、忘れられる権利についての議論が繰り返されて、2016年4月、欧州議会で「一般データ保護規則」(General Data Protection Regulation)が可決され、その17条において「忘れられる権利」が明文化されることとなった。Googleは欧州司法裁判所の判決を受けた後、EU Privacy Removal (削除を依頼できるフォーム)を提供した。その結果、依頼をしてくる人が非常に多く、その中でもSNSの削除依頼がほとんどを占めていた。

 この権利は日本では矛盾が生じてしまう。その理由は非常に複雑である。「憲法」だ。日本は「表現の自由」と「知る権利」を憲法で定めている。国民であれば好きな情報にアクセスすることができる。国が検閲をしてテレビや本の内容を規制することもない。これらの表現の自由や知る権利は、民主主義の根本となる重要な権利であるため、尊重する必要がある。しかし、「忘れられる権利」が重要視されすぎてしまうと、ネットでの自由な発言ができなくなり、素直な口コミレビューなどができなくなってしまう。それはネットという魅力を大幅に下げてしまうことである。日本では、まだこの不安定な状態の権利を採用するにはむずかしため、慎重に「忘れられる権利」について進めている。今は、EUしか認めていない権利だが、これからの時代において、この権利を重要視する会社は増えていくだろう。

 この問題について感じたことは、この権利を知っている国民はどれくらいいるのだろうか、ということだ。正直自分の周りでSNS等で人生が狂ってしまった人は見たことがない。この権利を主張する人は、相当なことがある人だと認識してしまう。日本でこの権利が認識下にないのは、おそらくは国民性だろう。日本という国はどこの国よりも他人を認めることを嫌い、他人を貶めることになんの迷いも躊躇もない。その国民性こそが何よりもこの権利を認識できない理由であろう。つまり、そのような行為が当たり前の日本という国では、事件を起こしたら人生の先がなくなる、そんな事件を起こしたら誰に何を言われても受け入れなきゃいけない。それが当たり前という認識が根本的にあるのである。日本という国は、憲法のあり方を間違って解釈していると感じる。「表現の自由」だから何をしても良い。「知る権利」があるからプライベートなんて関係ない。そう認識している人がほとんどである。そのような国に「忘れられる権利」なんて言っても誰も理解はしないであろう。そもそも日本という国の国民性は他人にはとてもドライで他人との関わりが薄い。それなのに人を救うような権利など、知ろうともしないであろう。興味すら出ないのだ。

 私はこの権利は日本でも採用するべきだと思っている。人生の先が見えなくなるほどのことではないのに、それをでっち上げるのはとても残念である。しかし、この権利を日本で採用するのであれば、相当な縛りをしなくてはならない。それは、この権利を逆手に取った犯罪が増えてしまうからだ。この権利の設定をゆるくしてしまうと、逆に被害者が増えていってしまうだろう。例えば、SNSでの誹謗中傷など、散々言ってきたのにこの権利を適用して欲しいという人がいて、この権利を承諾してしまうと言われ続けた側はどうなるのか。ただ傷ついておしまいになってしまうのでは不憫すぎる。こんな簡単な問題はないとは思うが、どの時代においても利用する人は必ず出てくる。なのでこの権利を採用するのであれば、かなり厳しい縛りが必要なのではないかと思う。