2025年5月1日(木)
『大観音城』→『城山城』→『足助陣屋』 その1の続きです。
次は城山城です。大観音城から近いので尾根伝いに道なき道を歩いて向かったが途中、削平された場所が多数あり城郭の遺構なのか林業のための平坦地なのかわからなかった。
それにしても遊歩道などはなく、獣道らしき場所を歩き「YAMAP」を頼りに進みました。
城山城は築城年代は定かではないが、足助氏・足助鈴木氏によって築かれた。飯盛山城を本城とする足助七城の一つ。
三の曲輪
三の曲輪北東側の切岸
二の曲輪北東側の土橋
二の曲輪南側の折坂虎口と桝形虎口の連続
桝形虎口の石垣
二の曲輪
一の曲輪南側段曲輪群
一の曲輪南側の切岸(高さ約6m)
二の曲輪から見た一の曲輪の段差
一の曲輪北側の石積
一の曲輪
南側に伸びる段曲輪から見た眺望(飯盛山城)
南側に伸びる段曲輪から見た眺望(真弓山城)
南側の段曲輪の途中からR153の切土造成により曲輪が消失している。
二の曲輪の桝形虎口、所々見られる石積みは織豊時代の遺構に感じられ、他の足助氏七城とは年代が違うと感た。
もしかしたら織豊時代に改築または増設されたのではないだろうか。
最後に足助陣屋です。
足助陣屋は白河藩主・本多忠義の五男である本多忠周によって築かれた陣屋です。その後、忠義は5代将軍・徳川綱吉のもとで出世を重ね、石高1万石となり足助藩を立藩しましたが、職務怠慢を理由に奉行職を免ぜられると、1689年(元禄2年)に3千石を減封され旗本に戻された。
遺構はないが今の状況
削平された土地しかありません。今は中には入れてトイレが常設されています。
これで足助氏七城はすべて攻城できたが、山中を歩いた感想はほかにも城か砦があったか、今書かれている縄張り図よりもっと広かった可能性がある。
また、お互い城は確認できる位置にあり連携して、この土地を防衛していたことがわかる。