今日はちょっと難しい話

 

親の介護だけでなく、家族がいると

何かしら、命と向き合う場面はさけては通れない

 

最近は、ひとりで生涯を過ごす方も多く、自分の先々を

若いころから意識して暮らしている方も多いのかもしれないが・・

 

総じて、現実はある日突然やってくる

 

命の選択というと重い言葉だが

長く療養していると、また、介護施設に入所する時など

必ず延命の事を聞かれたり、書類にサインを求められることが多い

 

母が今のところに落ち着くまでににも、急性期の病院、転院先

そして施設と

(入所する場所を探しているときも、多くの入所窓口でこのことを

 延命しないことを入所条件、念押しされました・・!)

 

人の命を、本人でない人が選択しをして決めてよいのか・・

元気な時に、もちろん漠然とそんな話題をしたことはあるし

延命など望まないだろうと思っていても

 

容態が悪くなるたびに、家族には「どこまでの治療をのぞむのか、延命について」

確認を求められる

 

どんなに大切な家族だとしても、苦しむ最後は望まない

かといって、今すぐ、この呼吸が止まっていくことを

目の前で決断をするのは、重く苦しい・・

 

若い世代や、病気に打ち勝つ望みのある方であれば

もちろん快方に力を注いでいただきたい

 

母のようにすでに倒れて療養をしている場合

感染症や、肺炎になった時など

熱を下げる、基本的な治療でも、出来る限りの治療を望むことは

いけないことなのだろうか・・無駄な医療なのか

 

もちろん、転院してこれ以上の高度医療を望んでいるわけでない

 

命の期限は誰に決める権利があるのか

 

介護してくださるすべての方、周りの医療の方には本当に

心より感謝をしている、ありがたいと思っている

 

でも、なぜ、私はいつも周りの方に謝ってばかりいるのだろうか・・

こうして母が生きていることは、周りに方の手助けなしでは生きられない

それは生きていることが、世の中に迷惑をかけている・・ということだろうか

医療費も、介護費用も負担しているので、感謝はしても

謝る必要はまったくないと、言われても。。

いつもいつもご迷惑をかけてすいませんと謝る

 

急性期の病院のまま亡くなっていたほうが、母にとっても

幸せだったのどうか・・この姿を本人もきっと望んではいなかったかもしれない

 

それでも、あの日、駆け付けた病院でもう少し、もう少しと思った気持ちは

間違っていたのだろうか

 

命の選択、難しく重く、そして現実

病気になったら、それもある年齢を生きたのちには

それを治療することは、いけないことなのか

 

介護の現場が厳しい中、高齢者が長く生きていいることは

迷惑でしかないのだろうか

 

自分の為には、書いておかなければと思う日々