翻訳家・政治・経済評論家
『徳川家広』
(プレジデント オンライン)
…2013年8月8日…
それまでフランス大使だった小松一郎氏が内閣法制局長官に決まった。
小松氏は外務省有数の国際法のエキスパートで、
同時に集団的自衛権の行使は日本国憲法9条に違背すると言う法務局の見解に早くから反対を唱えてきた人物だ。
安倍晋三首相に取っては心強い「同士」を閣内に得た形である。
とは言え、私の見る所…集団的自衛権と憲法との整合性と言う問題は…急速にその重要性を失いつつ有る。
と言うのも財政危機、更には経済の弱体化に苦しむ米国としては、
戦争を行うことは是非とも避けたいし、
まして自国の死活的利害と直接関係のない戦争には…絶対に巻き込まれたくないからである。
だから近隣の、どの国とも領土紛争を抱える日本との同盟は、今後極めて近いうちに見直しの対象となるであろう。
小松長官が集団的自衛権をめぐる憲法解釈についていくら「積極的に議論」しようとも、
米国と自衛隊が肩を並べて戦うと言う事態は…
ついに生じないようなのだ。
だがこの人事、別の意味で極めて重要かも知れない、
それを理解するには、内閣法制局と言う官僚組織に就いて、多少の予備知識が必要となる。
内閣法制局は明治6年の太政官改革に依って誕生した。
政務一切を担当する『正院』の中に有って、『諸立法式礼規則章程条例等に関する事を勘査す』
と決められた『法制課』をその前身とする~、
(「内閣法制局100年」)内閣よりも、明治憲法よりも古いのである。
だがこのポストが本当に重要になったのは戦後のこと。
明治以来の旧法制局最後の長官であり、その後も日本が独立を回復するまで実質的に同じ位置に有った佐藤達夫の働きのお陰になる。
世間的には米国から押し付け憲法とされる日本国憲法だが、
その草案―――いわゆる政府案は佐藤達夫ら旧内務省出身者を始め~、
二度と戦争を起こすまいと考える日本各界の人達の努力に依って、
密かに準備されたものである。
それとは別に幣原喜重郎首相はD・マッカーサー最高司令官の意を受けて、
大物弁護士の松本蒸治(彼も又大正時代に内閣法制局長官を務めている)の調査会に明治憲法と余り変わらない草案を作らせていたが、
調査会(佐藤達夫はその事務方だった)の誰かが松本案の内容を毎日新聞にリーク、
スクープになったその保守的な中身に米国世論も反発し、
流産してしまったのである。
それまで佐藤達夫らが密かに準備してきた草案が「政府案」になったのはその結果だった。
一方幣原は急遽「修正案」を作成させこれも議会に上程させる。
だが衆議院・貴族院で激しい論争を経て、現法憲法の原型である「政府案」は明治憲法に近い「修正案」を投票で破った。
日本国憲法は国会で誕生したので有る。
佐藤達夫の同士たちは、自分達が一線を引いた後も――いや未来永劫平和憲法が損なわれないよう知恵を絞った。
そうして創られた仕組みの一つが実は法制局の人事慣行なので有る。
* 憲法制定時の情念・理想と人事が直結 *
「(法制局の)長官ポストは特別職の公務員で建前上は内閣に人事権が有る。
しかし、現実には内部昇格者が自動的に内閣に依って任命されている、
次期長官は現次長で確定しており、次の次の長官は現第一部長に間違いない。」
「この上がりの双六は、法制局が1952年に再び置かれて以来破られた事はない」(西川伸一『知られざる官庁・内閣法制局』5月書房)
この書籍が発行されたのは、2000年の事だが、その後もこの慣行は踏襲されていた。
安倍首相に依る小松大使の起用迄は。
1952年に法制局長官だったのは、佐藤達夫である。
その佐藤が始めた人事慣行が~その後もずっと守られてきたということは、佐藤が歴代の法制局長官を間接的に選んできたのと、さして変わりがない。
憲法制定時の情念・理想と直結しているのである。
法制局がただの内閣の法律の助言者と言う役割を超えて、
憲法の番人として機能してきた由縁だ。
安倍総理は、総理大臣の権限を何の躊躇もなく行使する事で、その連鎖を断ち切ってしまった。
株価が下がり始めた以上、安倍内閣がさして長持ちすると思えないが、
安倍氏が戦後憲法体制の「支柱」の一本をへし折った事は、ほぼ間違いがない。
法制局長官の憲法の番人としての重みは、これで永遠に失われてしまったのである。
後世戦後日本の破滅への第一歩となった。と言われないよう、
祈るばかりだ。
(徳川家広氏稿)
日本国憲法が出来るまで、
この後も続けます。
読んで頂いて、有り難う御座います。