元号の日 | あっくんの自由気侭ブログやねん

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元号の日


日本書紀 』によれば、大化の改新645年 )の時に「大化 」が用いられたのが最初であるとされる。以後、7世紀 中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。文武天皇 5年(701年 )に「大宝 」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。



南北朝時代 には、持明院統北朝 )、大覚寺統南朝 )が独自に元号を制定したため、1331年 から1392年 まで2つの元号が並存した(建武 元年、同2年は、南北共通)。



室町時代 には特に足利3代将軍義満 以降改元に幕府の影響が強まるが、一方で京都の幕府と対立した鎌倉府 が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。



江戸時代 に入ると幕府 によって出された禁中並公家諸法度 第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に介入することになった。

明治 以前は、天皇 の交代時以外にも随意に改元していた。しかし、明治に改元された時に一世一元の詔 が発布され、明治以後は、新天皇の即位時に改元する一世一元の制 に変更された。これにより、辛酉 改元や甲子 改元も廃止された。さらに、明治5年(1872年 )には、西洋に合わせて太陽暦グレゴリオ暦 、いわゆる西暦 )へと移行することになり、旧暦太陰太陽暦 )に代わる暦として永久にこれを採用するとの太政官布告 により採用された。それに伴い、元号や干支や神武天皇即位紀元 (皇紀、神武暦)に加えて、キリスト紀元(西紀、西暦)の使用も始まった。しかし、太陽暦に移行しても、1910年代 までは旧来の太陰暦での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。

第二次世界大戦 後に、日本国憲法 制定に伴う皇室典範 の改正をもって、元号の法的根拠は消失した。しかし、官民関わらず慣例的に「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年 (昭和21年)1月には、尾崎行雄 が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年 (昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年 (昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年 (昭和21年)以後は無期限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山 は、『東洋経済新報1946年 (昭和21年)1月12日 号のコラム「顕正義」において、元号の廃止と西暦の使用を主張した。1950年 2月下旬になると、参議院で元号の廃止が議題に上がった。ここで東京大学 教授の坂本太郎 は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興 であるとか明治維新 」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるった。


しかし、1950年 (昭和25年)6月に朝鮮戦争 が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や、新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。一方で、皇紀に関しては、ほぼ使用されなくなった。


その後論争を経て1979年 (昭和54年)に元号法 が制定された。これは昭和天皇 の高齢化と、世論調査で国民の87.5%が元号を使用している世論に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承 があった場合に限り改める」と定められ、一世一元の制が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。




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