私の原発日誌(919)
 
 
 
湖南町の梅花藻を尋ねて
 
 
 
 福島・四季・彩々のryuさんからバイカモが見ごろという
 
ので鏡石町のあやめ園を見ながら郡山市の湖南町中野に
 
る珍しいバイカモの群落を見てきた。
 
ついでに猪苗代町にある会津藩初代藩主保科正之公の墓所
 
(土津神社)に参拝してきた。盛り沢山の行程で疲れまし
 
た。
 
 
行程は以下の通りです。
 
福島 → 郡山 → 鏡石町 → アヤメ園 → 
 
岩瀬牧場 → R118~R294 → 湖南町 → 清水川
 
→ 猪苗代町 → 土津神社 → R115 → 土湯 →
 
福島。
 
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駐車場が満杯、人がいっぱいで、何ごとかというと「撮影
 
会」、モデルさんが着物を着て湖畔に見えた。人が写らな
 
ようにするのが大変だった。人がごじゃごじゃ。
 
アヤメ園(花菖蒲)
 
 
 
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 バイカモは金魚草といって、金魚の水槽に植えられている
 
「藻」の一種。キンポウゲ科。御覧の通り水中で花を咲かせま
 
す。
 
ほとんどが絶滅危惧種で冷たい美しい水流でしか生育しない。
 
 
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 拡大してみてください。
 
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船津公園 ここで遅い昼食です。磐梯山はご覧の通り水
 
気でよく見えません。
 
 
 
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ウィキぺディアより
 
土田(はにた)堰と土町(はにまち)
 
正之の葬儀のときに葬儀奉行であった会津藩家老友松氏興
 
は、神社の維持管理の方法として、神社の神田を作ってそ
 
こからの収益で維持することを考えた。そして、荒野を切
 
り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにた
 
ぜき)である。土田堰は長瀬川(酸川の合流地点よりやや
 
北側の辺り)から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境
 
内前を通り、大谷川下流にそそぐまでの約17キロメート
 
ルの堰で、磐梯山の南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑して
 
いる。土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれ
 
た。また、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々の
 
ために造った集落が土町(はにまち)である。土町は土津
 
神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されてい
 
た。
 
現在、土田堰は江戸時代と同様に磐梯山南麓一帯の水田を
 
潤しており、また、土町は民宿街として多くの観光客で賑
 
わっている。
 
ウィキぺディアには以上のことが書いてあった。
 
そういえば神社の前に幅4mくらいで深い運河が流れてい
 
たなあ。気が付かなかった、あれは農業用水だったんだ。
 
水量が豊かなので、あれでは1千町歩(1千ヘクタール)
 
程度は楽に灌漑できると思う。灌漑すべき土地があればの
 
話だが。
 
17kmもの堰を造ったんだ。すばらしい。小藩にはでき
 
ないことだ。
 
やはりあらかじめ勉強すべきでした。もっと風景が違って
 
見えたのに残念。反省。
 
 
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土津神社 会津藩主保科正之を祀っています。
 
ウィキぺディアより
 
当初の土津神社拝殿は日光東照宮と同じような豪華絢爛
 
たるものであったそうだが、戊辰戦争の際、会津藩猪苗代
 
城代高橋権太夫が自ら火を放ったとされる。
 
その後明治13年に再建された。
 
昭和62年(1987年)会津若松市と猪苗代町に所在す
 
る会津藩主松平家墓所は国の史跡に指定された。
 
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拝殿を通り過ぎて石畳の参道をしばらく行きます。(10
 
分くらい)参道は河原の玉石で遠くから運んだものと思い
 
ます。
 
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やがて廟所が見えます。
 
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会津藩の祖、保科正之公(ほしなまさゆき)ってだれ?
 
保科正之は二代将軍徳川秀忠の子に生まれた。
 
ゆえあって保科家に養子に出された。
 
後三代将軍家光に見出されて兄弟の対面をした。
 
初代会津藩主23万石。
 
家光より4代将軍家綱の後見を依託され、長く幕閣にあっ
 
家綱を補佐した。