こんにちは。
今日は神社建築の初期について綴りたいと思います。
神社建築の発生の背景には、時代と経済の変遷がありました。
狩猟・漁撈中心の獲得経済から、農耕中心の生産経済へと転換することにより生産量が増大した。
それに伴い、私有財産の貯蓄が可能となり、貧富の差が明白となった。
その結果、貴族が出現し、支配関係が生じ、住宅建築は発展していった。
昔の住宅建築の形式が、現世の神社建築を見ることによりその姿を偲ぶことができると言われている。
また神社建築の初期の頃には、自然的崇拝が主とされていました。
原始信仰の点から考えても、当時は山や森を御神体として祀る自然的崇拝は一般的であった。
奈良の大神神社、長野の諏訪神社、埼玉の金鑚神社などのように、本殿のない神社がその例として挙げられる。
寺社を参拝するときはそのような点を見てもおもしろいかもしれません。
寺社建築において、平面・規模・形式等を示す方法として、何間何面と表わす間面記法というものがある。
母屋についているひさしの数を「面」、柱間を「間」とすることで表わす。
梁の構造上の都合(部材の長さ等)により、梁間は2間と決まっており、数える「間」は桁行のみで良い。
ただ、基本的に桁行きの「間」数は奇数であり、偶数は珍しい。奇数が多いのはおそらく、真ん中の柱間には戸が入るからではないかと考える。
ちなみに、京都にある蓮華王院三十三間堂は、それが名前にまで顕著に現れているものであると思う。
次回は懸魚について、に戻りたいと思います。
乞うご期待(笑)
それでは(・∀・)