お城や戦国武将が大好き! -20ページ目

お城や戦国武将が大好き!

大河ドラマが今よりも3倍楽しめるブログ!ブログの説明を入力します。




今年の大河真田丸は、いろんな意味で
今までの固定概念を覆すような演技が見られて
とても新鮮なのですが、




なかでも、徳川家康(内野聖陽)の何とも頼りなさげな
感じが、逆にユーモラスがあってとても
人間臭くて逆にいい感じですね。




特に、家康が
本能寺の変に際して
命からがら伊賀越えをして

本拠地三河にたどり着いて
側室の阿茶局の膝枕を受けているシーン
家康の
『死ぬかと思った!』という
コメントも実感がこもっていてとてもよかったです。




今回は家康が、駄々(だだ)っ子のように甘える
阿茶局(斎藤由貴さん)を取り上げたいと思います。

それでは、いきましょう!

【徳川家康の数ある側室の中でも一番の知恵者】

徳川家康は、74歳という当時としては
長生きであった為、その側室もたくさんいたわけですが




のちの二代将軍の秀忠(ひでただ)や松平忠吉を生んだ
西郷局をはじめ
約20人ちかくいたわけですが
その中でも、最も知恵者であったのが
阿茶局(あちゃのつぼね)になります。




斎藤由貴さんが、見事な演技をされて
おられますが、



この阿茶局は、たいへん頭の働きが鋭く
家康を陰から支え続けたと思われ
その姿は1584年に起こった
小牧・長久手の戦いの陣中にも。




その時、家康との間にできた子供を身ごもって
いたのですが、流産するという悲劇が……。




このように、常に家康と共に
活動を共にした阿茶局は、徳川家の奥向き
つまり、今で言う
家庭内のことは、すべて
阿茶局に任されていたそうです。




家康が天下を取れた一因としては
このように、徳川家という家庭内が
阿茶局のような優れた女性によって支えらていた
というのもなきにしもあらずだな
と感じました。




男が外で元気に仕事ができるのは
やはり、家庭でしっかり家を守ってくれる
女性がいて、初めて力が発揮できるというもの。




昔は、外は男・内は女という関係ですが
今は、外は女・逆に内が男のパターンもあるわけで




この役割分担は、それぞれの家庭によって
違うわけですが、さてさて…。




この阿茶局の父親は、甲斐武田氏の家臣で
飯田直政。




武田信玄の弟であった一条信龍に属していた
神尾忠重という人物に阿茶局を一度嫁がせています。




しかし、1577年(天正5)忠重が亡くなり
子供を抱えた未亡人、今で言うシングルマザーになります。

その2年後1579年家康に仕えることに。





それにしても、徳川家康の
側室は、未亡人・今で言うシングルマザーに
なった方がとても多く





例えば、
西郷局(さいごうのつぼね)……徳川秀忠(家康の3男)・松平忠吉(家康の4男)
茶阿局(ちゃあのつぼね)……松平忠輝(家康の6男)

お亀の方(おかめのかた)……徳川義直(家康の9男)




そして
阿茶局(あちゃのつぼね)ととにかく
後妻になった女性で
聡明で、きれいな女性を側近くに仕えさせました。




これには、正室であった築山殿とのトラウマが
そうさせたのでしょうか?





この築山殿との婚姻は
家康が駿河の今川家に人質として
なっていた時、
1557年(弘治3年)。
家康が15歳。築山殿が16歳!?と
共に思春期真っただ中の時に結ばれました。




これは、築山殿が今川義元の姪という形なので
明らかに政略結婚であり、両者共にしぶしぶという
関係だったのでは、ないのかと推測されます。





そして、この築山殿は、とても傲慢で
つまり、常に自分より他人を見くだす性格で
しかも、とても嫉妬深かったとか。




これは、江戸時代に広まった評判なので
実際、どのような性格であったのか
わからないわけですが、あまり良い性格といいますか
気性の激しい女性であったのかもしれません。




そんな二人の転機になったのが
あの、桶狭間の戦い(1560)になります。




当時戦国大名として
強国であった覇者・今川義元が
尾張の弱小大名であった織田信長の奇襲攻撃によって
討ち死にするという大事件が発生。




この今川家の大ピンチの時を見計らって
徳川家康は、父祖伝来の三河・岡崎城を取り戻し
独立大名として、今川家を攻撃することになります。



そして、2年後には、織田信長と同盟を結びます(清州同盟)




しかし、今川家と徳川家、当時は松平家の橋渡し役で
結婚していた築山殿は、苦しい立場に置かれるわけで
この家康の築山殿から見れば、裏切り行為によって
築山殿の父、関口親永(せきぐちちかなが)は、今川家を継いだ
氏真(うじざね)から、敵とみられて
切腹を命じられ、亡くなっています。




築山殿にしてみれば、旦那は父の敵(かたき)になってしまった
わけで、家康と築山殿との関係は最悪状態。




そして、のちのち家康と築山殿との間にできた
信康ともども、悲劇的な結末になってしまいます。




このように、家康の前半生は、公私共にとても
厳しい状況であったわけですが、この築山殿とのトラウマから
できるだけ穏やかでしかも、聡明な女性を愛したと
思われます。




これには、家康自身の性格も穏やかであったから
とも言えるのではないでしょうか?
家康の長い生涯で、激怒して回りの付き人を手討ちに
することは、なかったといわれているので
根が優しかったのかもしれません。

【斎藤由貴と言えばスケバン刑事】

そんな家康をまるで子供のように叱りつける阿茶局。
そんな役を、違和感なく演じる斎藤由貴さん。




そんな斉藤由貴さんは、
昨年、デビュー30周年を迎えられたそうで
おめでとうございます。




私の中では、スケバン刑事のイメージがとても強く
セーラー服姿でヨーヨーで次から次へと


叩きのめす姿が思い起こされます(笑)





今の若い人には、ぜんぜんわからないと思いますが
その後の南野陽子さんや浅香唯さんと
このスケバンシリーズが続いたわけですが




みなさんいい年の取り方をされていて
あ!あまり年齢のことをいうと怒られるかもしれないので
いいませんが、
みなさん、今も変わらずとてもお綺麗です。




斎藤さんは、3人のお子さんを育てられた
お母さんでもあるわけですが、
女性は、本当に母親になるととても
強くなりますよね。




自分も妻に時々、切れられたときは
ほんと、惨めなくらいオドオドしてしまいます。




なので、できるだけ
言われることに対しては、『はい!はい!』
と逆らわないようにしています(笑)




それにしても、女優から歌手、そして詩、小説、エッセイと
幅広く活躍されている斎藤由貴さんは、
まさに才女。
今後も大活躍されること間違いなし。




わたくしも陰ながら応援させていただきます。
ではでは。
岸井ゆきの


真田丸が始まって5か月目。今日の放送で20回目。



大坂編が始まってからは、石田三成や加藤清正と
名前の聞いたことがある、武将から、誰だ?という
人物まで、いろいろ登場して、すごく勉強になっています。




さて、信繁の最初の妻・梅【黒木華】さんは、惜しまれつつ
第一次上田合戦のごたごたに巻き込まれて、亡くなってしまうわけですが



今回は、真田信繁の三人目の妻・『たか』さんに
ついてシェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!

【真田信繁の三人目の妻が決定!】

そもそも、三人目!?

あれ、二人目は誰だ?

そうですよね。まず、




真田丸が開始した直後は、

★梅【黒木華】 信繁の初恋の相手

★きり【長澤まさみ】信繁の幼なじみ



この二人が妻になって
争う展開になると予想していたのですが




実際の史実では、信繁の正室は、
竹林院という大谷吉継の娘なので
竹林院が出ないのかという疑問があったのですが




2月21日に、正室・春(竹林院)役が
決定。松岡茉優さんが演じることになりました。




そして、5月22日(日)三人目の妻が決定というニュースが
舞い込んできました。




あれ!三人目!?

四人目の間違いじゃないのかな?と一瞬思ったのですが
真田丸のサイトには、確かに3人目の妻となっています。




え~と、1人目が梅【黒木華】さんで
2人目が春【松岡茉優】さん、



3人目がたか【岸井ゆきの】さんに決定だそうです。




そう、きり【長澤まさみ】さんは、妻ではないのでしょうか?
今回の真田丸では、きりさんの役どころは
信繁の『生涯のパートナー』となっているので
妻では、ないという設定なのでしょうかね。




真田丸を視聴していて、きりさんは、常に信繁のいくところ
に付き添っているので、妻というよりかは
番組全体のガイド役みたいな感じなんでしょうか。




さて、今回のたか役(隆清院)を演じる
岸井ゆきのさんですが




正直、名前を初めてお聞きしました。




早速調べてみますと


CMミニストップ 「ハロハロ冷凍みかん」編

に出演中ですね。





そんな【岸井ゆきの】さんのコメントはこちら

いつか時代劇に出たいという漠然とした想いはありましたが、
まさか、『真田丸』に出られるなんて!嬉しくて今もどきどき
しています。
リハーサルでは素晴らしい共演者の方々に囲まれ、撮影では
画面越しで見ていたはずの信繁さんが声をかけてくださり、私は
緊張で土偶のように固まってしまいましたが、最近、ようやく
少し会話ができるようになってきました。
私にとって全てが新鮮で斬新でときめくような現場で、
撮影終わりの帰り道が虚しくなるほどです。
たかとしてここに居られる事をとても光栄に思います。
ぜひご覧ください!



岸井さんの熱意あるコメントをみて
すっかり魅了されました。
これからの活躍を期待しております(^^)/

【真田信繁の子どもは13人!?】

真田信繁の妻は、いったい何人なの!?

という疑問がふと思い浮かんだので

まずは、こちらをご覧ください




↓直系子孫が明かす!真田幸村の真実【宝島社】から引用




奥さんは名前がわかっている人だけでも
4人であと2人いて、合計6人。




そして、子供は合わせて13人もいます。
ちなみに、仙台真田家は、竹林院(松岡茉優)との間にできた
大八、のちの片倉四郎守信から始まって
現在の当主は、14代目だそうです。




大坂の陣で信繁が討ち死にしたあと、
残された子供たちの内、5人が仙台藩の片倉家に
引き取られています。




特に、5女の阿梅は、大坂城落城の前日に
片倉重綱[父・片倉景綱は伊達政宗の軍師]に引き取られ
のちに、後室つまり奥さんにしています。



信濃の一国衆に過ぎなかった真田家を
大名にまでのし上がるまでに、仕立て挙げたのは
真田昌幸。




そして、その長男として生まれた
源三郎信幸。
常に冷静沈着で温厚な性格で
ありましたが、いざ合戦となれば
先陣をきって戦う勇猛さも兼ね備えた武将でした。




そんな、信幸には、『おこう』又は、『こう』という
正室がいました。




ですが、いろいろないきさつがあって
徳川家康の重臣・本多忠勝の長女である稲(いな)又は小松姫と
縁組の話が持ち上がります。




さてさて、今回は
真田信繁の兄である信幸の正室について
シェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!

【真田家と徳川家の橋渡し】

今回の大河ドラマの主役は、もちろん
真田信繁(堺雅人)。


しかし、その兄である真田信幸は、あまり弟ほどには
知名度がありませんが、真田の家名を明治維新まで
存続させることに成功した、真田家には
なくては、ならない人物でした。




そんな難しい役を、大泉洋さんが
普段のお茶目なところを封印して
まじめに、演技されておられるので
余計に印象深く感じられます。




さて、そんな信幸には、すでに正室として
『おこう』さんがいました。




NHKのサイトでは、『こう』という名前になって
おりますが、ドラマの中では、『おこう』と
言っているように聞こえます。




この『おこう』さんは、
信幸の嫡男・真田信吉(さなだのぶよし)を生んでいます。




だったら、やはり信幸の正室は、『おこう』(長野里美)さんに決まり。
と思うのですが、




天正13年(1585)の第一次上田合戦以来
徳川家と真田家は、敵対関係になり
最悪の状態でしたが、




上杉家を通じて豊臣秀吉に臣従することに
なると、秀吉の命により
敵対関係にあった徳川家の与力になることに
なります。

与力とは、いざ合戦となれば、配下となって
戦わねばならなくなります。




これは、真田家にとっては
微妙な立場なので、それを和らげる意味もあって
真田家と徳川家の、結びつきを強めるために
信幸と稲(いな)の縁談が持ち上がります。




前回の真田丸では、信幸(大泉洋)は
即座に、父・安房守昌幸に『お断り下さいませ!』と
拒んでおりますが、




しかし、徳川の与力となった以上
この縁談を断るわけには、いかず
結局は、成立。



晴れて、稲【小松姫】は、信幸の正室として迎えられます。

じゃ、『おこう』さんと『稲』二人とも正室?





では、なくて
『おこう』さんを正室から側室へと格下げしております。





何とも、『おこう』さんがかわいそうな気もいたしますが
この『おこう』さんは、父・真田昌幸の兄・真田信綱の娘なので
信幸にとっては、従姉弟になるわけなんですね。





なので、真田家のことを考えて
説得をすれば、きっとわかってすんなりと
身を引いてくれたのでしょう。
この辺のいきさつは、5月22日のドラマを
見ていただければ、わかると思いますのでぜひ、見てくださいね。


【家康もその才能を認めた信濃の獅子】

かつて、武田信玄公が
天塩にかけて育てた真田昌幸・信伊兄弟。




信玄公が『我が目の如し』といって重用したのが
真田昌幸でした。





その名にふさわしく、主家である武田家が滅び
天正10年(1582)天正壬午の乱と言われる
信濃・甲斐・上野の領有をめぐって
徳川家康・北条氏政親子・上杉景勝と
名だたる大名たちに混じって
ついには、大名にまで登りつめることになります。




そんな昌幸の右腕となって戦場を駆け巡った青年こそ
真田信幸その人であります。




信幸も父や弟に一歩も引けをとらない戦上手でした。
それが、如実にあらわれたのが
天正10年(1582)の手子丸城戦でした。




当時、信長が本能寺にて討ち死にしたため
信濃から上野一帯を治めていた滝川一益が
北条氏直の大軍と衝突。




滝川一益は、最初善戦しましたが
大軍にまさる北条氏に敗れ、自分の領国の伊勢へ逃亡。




当初は、勢いの勝る北条側についていた真田昌幸。
しかし、北条軍が南の甲斐へ侵攻すると
徳川方へ寝返ります。

これを知った北条側は
早速、真田領である岩櫃城近くの手子丸城へ5000の兵と共に
急襲。城に詰めていた浦戸兄弟は、多勢に無勢。
城を乗っ取られてしまいます。




岩櫃城にて、手子丸城のピンチの知らせを聞いた
信幸は、800の兵と共に救援に向かいました。
が、浦戸兄弟は落城の責任を感じ
自害してしまいます。




手子丸城へ到着した信幸は
浦戸兄弟を助けられませんでしたが
このまま、城を取られたままで
引き下がるどころか、奪還に向けて開始。




まず、150の兵を囮(おとり)にして
城から1000人ほどをおびき出す一方で
裏手の寺に放火します。




前後に真田兵が現れ浮足だった北条軍。
その時、金の馬鎧(うまよろい)を着た武者が眼前にあらわれました。
もちろん、北条側は、信幸本人が現れたと思い
『かかれ!かかれ!』と猛攻撃。




しかし、これも囮(おとり)で
金鎧(きんよろい)の武者は、真田配下の唐澤玄蕃でした。
信幸本人は、300人の主力部隊を率いて
唐澤部隊と戦う北条軍の横っ腹から突如襲い掛かります。




思わぬところから
急襲された北条軍は、城に退却。
籠城しようとしますが
兵士たちの動揺が収まらず、裏口から逃亡する輩も続出。




これを見た信幸は、一気に奪還するチャンスととらえ
大手門口から攻めさせて
自身は、守りの手薄だった北の丸から50人の兵とともに侵入し
奇襲をかけて火を放ちます。思わぬ火の手に
北条軍は、味方の裏切りが出たと思い、我先にと逃亡。




真田信幸は、難なくあっさりと一日で城を奪取します。
少ない手勢で大軍を撃破するという
見事な采配。




のちに、この手子丸城を守っていた富永主膳は将軍家の旗奉行に
なるのですが、このときの信幸の見事な采配ぶりに感心して
多くの人に話して聞かせたそうです。




まさしく『信濃の獅子』。
徳川家康も信幸の才能を見込んで
養女とした稲【小松姫】と婚姻関係を結んで
真田家を取り込むことにしたのでしょう。




家康が見込んだとおり
こののち、信幸は、徳川家の為に
忠義を尽くすことになります。