夢戦争

夢戦争

春、高1になった坂城悠斗。
彼の眠りが、全ての始まり

微睡みの中、見つけ出す答え

* * *

小説投稿です。
ファンタジーものや学生生活ものが好きな方はよかったら見ていってください。

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そう、考えてみれば、この世界が想像を超えたものであれ、レックスは肌の色を気にしたことが全くなかった。
それは、今までこの世界で見た肌の色が全て”悠斗”の常識の範囲内だったということ。

例えばレックス自身の肌。
元の世界で言えば、どちらかというと、少し焼けているが白色人種のものに近い。

アビルなどはまさに白人の綺麗な白磁の肌を持っている。

例えばイェルクの肌。こちらもかなり太陽に焼けているが、彼の肌は黄色人種に近いものが見て取れる。

レックスのいるキャンプには様々な肌の色が存在する。
だがそれは全て、悠斗の元の世界に存在することのある色のみだったのだ。彼らが例え悠斗のいる世界を訪ねようと、見た目のみなら難なく溶け込むことができるであろう。

(でも、この子は…)

レックスは、目の前に立つ小さな少年をじっと見据える。
襟足の伸びて所々白っぽく汚れた紺色の髪。
生気みなぎる若葉色の、____角度によっては金にも見える瞳。
固く結んだ色の薄い唇。

汚れた、灰褐色の肌。

身には布一枚纏っていなかった。
あばらの浮き出た身体が、厭に痛々しい。

少年もまたレックスをじっと見ていたが、やがて諦めたように、ふてくされたようにぷいと目線を逸らした。

少年がそっぽ向いた勢いで、ジャラ…と再びあの金属音がして、やっとレックスはその音の原因を目で理解することができた。

少年の、首に重く結びついた首枷。その鎖は骨ばった背中を伝い、壁に固く繋がっていた。
折れそうに細い足首にはずっしりと重そうな足枷は、少年の微細な動きに鉄の不穏な音を鳴らす。
壁に結ばれた黒い鉄鎖は、全体重をかけたとしても取れそうには見えない。


捕まってるんだ

信じがたいことに
この店に。

レックスは、自分の歩いてきた方向、店の入り口の方をふっと振り返る。
自然と暖かく、少し木の香りがする店内。
先ほどまでそこにいた、朗らかな、よく笑う女将店主。

レックスは、腹から込み上げる悪寒に体を固くした。

囚われの少年はもうこちらを見ることはなく、ジャラジャラと鎖を鳴らしながら部屋の端に行くと、その角に膝を抱えて座り込んだ。

「きみ…」

レックスが、少年に声を掛けかけたときだった。
天井から、誰かの歩く音が低く聞こえてきたのだ。
その音は徐々に近くなったり遠くなったり、ときに真上を通った。

レックスは慌てて部屋の出口に足を忍ばせた。細かいガラクタが足元で邪魔をした。

部屋を出る寸前、一瞬だけ、少年の方を振り向いた。
一番足の動きを邪魔したのは、罪悪感。

いいのか
このままで

しかし今のレックスに何ができるでもなく、ただ少年の重たげな鉄枷を見て、一人顔を歪めただけだった。

レックスは逃げるように目をそらした。

扉を閉める直前、背後からピュイッとまたあの口笛が聞こえた。振り返りはしなかった。



吊るされたランプの煌々と灯るろうそくがふっと消えた。
そして慌ただしく扉が閉まる。

その部屋は再び、暗闇に包まれた。


人知れず少年は、その骨張った膝を抱えた。



レックスは大急ぎで階段の下まで歩き、上に向けて声をかけた。
動き回って響き鳴ってしまった鎧の音を、誤魔化したかったからだ。

「…ぉ、おかみさーん、いますかー?」
震える声しか出ずとも、それをできる限り張って、レックスは階段の上に呼びかける。

レックスが声を掛けてからほどなくして、先ほどから上で響いていた足音が徐々に近づいてくる。
そして、階段の上にひょっこりと現れた彼女は、レックスを下に見ると「あらあらあらー」と言って自分のエプロンをよけながら、階段を降りてくる。

「ごめんなさいねぇ、お決まりかしら?」
「えっと、こっちのやつ、なんですけど…」

早鐘を打つ心臓。
額に流れる冷や汗。
適当に手に取った時計は、どんな形だったかよく覚えていない。

「これが、気になってるんですけど、僕の持っているお金で足りますか?」
レックスは、腰に下げた麻袋の中身が彼女に見えるように広げた。
小手の中で震える手先は彼女には見えない。

どれどれ、と彼女はその袋を見ると、まぁ、と小さく声を漏らしたあと、人の良い笑みをレックスに向けた。
「ぜーんぜん大丈夫よ。その小さい金貨1枚で足りるわ。お買い上げね?」
彼女は太った首を傾げる。

手持ちのお金で足りるというのはわかったが、決定させるような彼女の口ぶりにレックスはたじろぐ。
「あー、どうしようかな。えっと…その、一応他の店も見て来てから、決めたいな、と思ってまして…」

その女は眉をへの字に曲げて笑う。
「あらぁ、そうなの。…まあいろいろ見てみて、やっぱりこれがいい、ってなったらまた来てくださいね」

はい、とそう言って、その優しそうな笑顔を、レックスはふいに見返した。

目の前のこの女があの少年を鎖で繋いでいるとはにわかに信じがたい。

「このお店…おかあさん一人でやってるんですか?」

「ううん、旦那と二人でやってるの」
女は相変わらず陽気に答える。

「ああ、そうなんだ。いや、いい店だなぁと思って。…じゃあ、また来ます」
レックスが口上に登らせた適当なお世辞にも女は笑顔で手を振る。
「ありがとねぇ」

レックスは踵を返した。
あるかないかもわからない視線に背中を強張らせ、できるだけ自然な歩き方を努め、通りを歩いていく。
そのままあの時計屋が見えないところまで充分に歩き距離をとって、ふいに足を止める。

変わらず賑やかな人波の中、彼は振り返った。
もう黒と金の洒落た看板はとうに見えなかった。

レックスは再び前を向き、がむしゃらに、それでも一応次の時計屋方面____通りの南側に向かって歩き出した。

一体、あの少年は何だったのだろう。
野生の獣のような雰囲気を纏った少年。
生気のない灰色の肌に、生気みなぎる金若葉色の瞳。
2度っきり聞こえた妙な口笛の音は、彼が吹いていたのだろうか。
ろうそくの火がいきなり灯ったのは?
部屋が妙に蒸し暑かったのは?

レックスは角を曲がる。

衝撃と、残された大量の疑問と、
それに、多くの後悔が、彼の足を速める。

見ず知らずとはいえ鎖につながれ何日も物を食べてないであろう子供を、自分の身の安全のためだけに、置き去りにしてしまったのだ…とレックスは今になり自責に暮れる。

(あんな、暗く蒸した部屋に)

レックスはまた、角を曲がる。

そして、やっと右手に見えた時計のシンボルのついた扉を見てため息を吐いた。

扉にぶら下がった木の看板に黒く書いてある文字は読めない。

だが、蜘蛛の巣と埃にまみれたその人の気配のない店内を見れば、その店が営業などやっていけるわけがないのは、文字を見ずとも分かる。

レックスが扉の取手に手をかけると、取手はあっけなく外れてしまい、閉め切ったその戸を引くことはできなかった。

外れてしまった錆びたアンティーク調の取手を、扉の前の石畳に供え物のように置くと、レックスはそこを立ち去った。


(あとは北東の端、か…)

重い足取り、3つ目の店へ彼は向かう。

*ーーーーーー*


ややひんやりとした風が頬を撫で、朝の柔らかい日差しが、あき窓から差し込む。
レックスはその光に誘い込まれるようにゆっくりと、目をあけた。


(しばらくぶりのしっかりした夢渡りだな)

レックスの中の「しっかりした夢」の定義とは、「悠斗の夜の睡眠時に渡ってる夢」のことである。

軽い掃除と身支度を終えた彼は、しばらく前の夢渡りの時に棚の奥にしまい込んだ麻の袋を取り出した。

それは、いつかアビルに手渡された、レックスの初めての「給料」だった。

レックスはその小さな麻袋の中身を机の上にあけた。
じゃらじゃらと音を立てて銀色の小銭が出てくる。
だがその出てきた小銭にレックスは首を傾げる。

(…小銭?)

それは、丸くて、銀色で、すべすべとしていた。

そこには、悠斗の知る硬貨にある、樹の模様や人物の彫刻などは皆無、ただ真っ平らで滑らかな銀色の硬貨だった。

硬貨、というよりも、丸く形の揃ったただの金属と言うほうが差し支えない。


続いて出てきた、銀貨よりも少し小さな3枚の金貨も同様に、表面は滑らかだった。

そうしてこの袋から出てきたのは
銀色が20枚、金色が3枚だ。

(これ、合計いくらくらいなんだろう)

なんだか、小銭のみだと少ない気がするというのが、悠斗の感覚だった。
ここには紙幣というものはないのだろうか。

レックスはしばらくその小銭とにらめっこをしていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、麻袋にその小銭全てを入れる。

身支度を整え、その麻袋だけを片手に持つと、彼は自分の宿舎を出た。


(やっと、時計屋に行ける)

*ーーーーーー*


そもそもこんな簡素な宿舎通りに店などあるのか。
もちろん、ここには、店はない。

この「キャンプ」はあくまでキャンプ。いわば兵士たちの出張所のようなものであり、みなそれぞれ帰る街を持つ。

そしてここから一番近く、一番兵士の出張率が高いのが、「アルゴス」という街。
近辺でも有名な商店街だそうだ。

行き方は簡単。
地下通路で一直線に進むだけ。
上の荒野を通るのは一人だと危ないからやめておくように。

「…ってイェルクは言ってたけど」
レックスは一人、呟く。
地下通路に反響する自分の声。

もう、どれくらいこの暗く湿った地下通路を歩いただろう。
手に持ったろうそくが短くなって行くのが心許ない。

時折、別れ道があるが、必ず片方は粗末な看板が立っている。
たぶん、行くなという意味だろう。

そうして、イェルクに言われた通りにただ真っ直ぐ歩くこと目測30分ほど。

入り口と似たような石の階段が、見えてくる。
泥で汚れたブーツを擦りつけるようにして、レックスは階段を登った。

(眩しっ…)
太陽の光が、暗闇に慣れた目を刺激する。


その出口には、門番らしき兵士が一人立っていた。
レックスと同じ鎧を身につけた、青年兵士だった。
こげ茶の天然パーマが呑気そうなイメージを与え、あまり鎧とマッチしていない。
「キャンプから?」
「はい。279番です。」
「279、と。お疲れ様。」

その兵士によるチェックが終わるとレックスは歩みを進める。

心細い地下から一転、目の前には賑やかな商店街が広がっていた。

レックスは突然の大勢の人波に気圧されながら、店主の掛け声と立ち並ぶ店を見る。

新鮮な野菜や果物、肉を売ってる店。
壁中に薬草が吊るされている店。
古い家具の並ぶ店。
髪留めなどのアクセサリーを売る店。
鎧を売る店。弓を売る店。
羽ペンや封筒を売る店。

ありとあらゆる店が、レックスの目の前に立ち並ぶ。
活気のある呼び声と、興味を引く品々。
レックスは目移り甚だしく浮かれ歩く。

それに、レックスが心惹かれたのは店だけではない。
ここに来て彼は初めて、キャンプ関係者以外の人々を目にしたのだ。

戦と無縁な人々を。

殺伐とした空気がどこにもない。
緩やかに穏やかに。
血の匂いではなく、小麦の匂い。
鉄の音ではなく、人を呼ぶ声。

「いらっしゃいませーっ!」
「この値段今だけっ!」
活発な客呼び。
「おっちゃん、もーちょいまけてよ」
手を擦る青年。
「おかーさん、これ買ってー」
駄々をこねる少女。
「おぉっ、これはお目が高い」
「だめ、帰るわよ。店番お兄ちゃんに任せて来ちゃったんだから…」
ため息をつく母親。

この世界に来て初めて感じる平穏だった。

聞こえる少女の泣き声にレックスは少し微笑みながら、歩き出す。

しかし、ずらっと左右に立ち並ぶ店々を見るも、なにせ店の数が半端じゃなく多いため、時計屋はなかなか見つからない。

「すみません、時計屋はどこにありますか?」

1人で探すのにも限度がある、と早々に悟ったレックスはついに道行く人に尋ねた。
それは、特に目的もなく道をほっつき歩いていた、焼けた肌の目つきの悪い男である。
そのいかにも気だるげな顔を見るうち、この人物に聞いたのはまずかっただろうか、とレックスはたじろぐ。

その男はじろりとこちらを見た。
レックスはその眼光に冷や汗をかく。

そして男は、聞き取りづらい低いがらがら声でボソッと言った。
「…壊れたか」

レックスは答えに戸惑うが、「はい」と言う以外に言えることはなかった。

男はしばらく目をつぶって頭をガシガシと掻きむしると、そのままその手で指を指した。

「……向こうの通りの南側に1つ。あそこに見える黒い看板の店が1つ。この商店街の北東の端に1つ。あとは知らん。」


とりあえず近い店から訪ねることに決め、レックスは黒い看板の店に向かって歩き始めた。

店の目の前まで着くと、レックスはその店の丸く空いた窓から中を少し覗き込む。

レックスは息を飲んだ。

壁中に下がった『時計』
売り棚には、ホルダーの付いていないタイプの時計や、正方形の時計が見え隠れしている。
種類が豊富で、暖かい陽だまりのような雰囲気の店だった。

レックスは、居住まいを正し、扉を2回ノックして、金色のドアノブに手をかける。

だがしかし、そのドアノブが回らない。

丸いドアノブは右にも左にも回らず、ガチャガチャとレックスは手こずる。
だがその時、いきなり内側からドアが開き、中からふくよかで優しそうな女性が顔を出した。

「うふふ、そのドアノブね、真ん中を押しながら引くのよ。いらっしゃいませ、軍のお方かしら?」

「あっ、はい…」
戦いの経験はほぼないが、確かに軍の人間ではある。

その女は丸い頬を綻ばせる。
「そうよねぇ、お疲れ様。今日は修理かしら?」
言いつつ彼女はレックスを店内へ招き入れる。何か作業をしていたのだろうか、少し白く汚れた手を、花柄のエプロンで拭いた。

「いや、新しく買おうと思って」

「あらぁ、そうだったのー。それじゃあごゆっくり、選んでってくださいねぇ。私は上にいるから、何かあったら声をかけてちょうだいね」
そう言ってにっこり笑うと彼女は奥の階段を登っていき、姿を消した。

レックスは改めて店内を見回す。
客は彼一人なので、見やすい。

五百円玉大の小さな時計から、レックス顔よりも大きな時計まであり、細かい装飾のあるものや、シンプルなものもある。
ペンダント型の物、キーホルダー型の物、腕時計型の物などが一通り揃っていた。

共通しているのは、中心に立った針と、ゆらゆらと揺れる、四方の方位磁針、色を半分に分けられた文字盤。
どれもこれもレックスの物欲をくすぐる。

しかし、一つ困ったのが、値段がわからないことだった。値札は付いていないし、付いていたとしてもまだお金の価値がわかっていないのだ。
果たして、自分の持つあの小銭で足りるのだろうか。腰の脇に下げた袋を開けてみる。金属同士のぶつかる音がチャリンと響く。

中身の銀色はやはり心許ない。

やはりこれは先程の女性にだいたいの金額を聞いてみようと思い立ったレックス。
店の右奥に見える階段に視線を走らせる。

(…登っていくのは…まずいかな)

階段の前まで歩いて行き、上を見上げる。
物音は、聞こえない。

左を向くと、1本の静かな通路があり、その先は行き止まりになっているのが見える。

通路の途中にあるかないかわからないような古臭い扉があるのみだ。

階段の横が部屋になっているのだろう。

その通路に吹くすきま風に体を震わせ、レックスは再び店内に戻ってきた。

お金のことを聞く恥ずかしさに、階段の上に向かって声を張る勇気がどうにも出ない。
レックスは、もう少し店内を見て回って、女性が降りてくるのを待つことにした。

(そのうちまた、くるよな)

待つ間の時間を潰そうと、適当にそこにあった特に買うつもりもない四角い時計を見ようと手に取る。

だがそのときだった。

ガタガタ…チャリ…ッガシャン!

店の穏やかな空気に似合わない、荒く太い金属の音が響いた。
はっとレックスは振り返る。
手に持った時計をそっと棚に戻しながら、音のした方向を見つめる。

間違いなく店の奥から聞こえた音だった。
レックスがじっと耳を澄ましている間も時折その音は大きく、小さく、響く。

恐怖心と好奇心が首を持ち上げた。

レックスは、店の奥に、音を頼りに足を忍ばせる。

(階段の上…いや違う、通路の、奥?)

レックスは、すきま風吹く狭い通路を進む。その間も音はずっと響いていた。
そして、その途切れ途切れの金属の音が、最高潮に達したとき、レックスは通路途中の、あの古い扉の前にいた。
先程見たときは視界に入っただけの古臭い扉が、今はその扉の先が怖くもあり少し楽しみでもある。

(この扉の、奥から…)

好奇心が彼の右手を持ち上げる。

(いざとなったら、トイレを探してたとでも言えばいいさ)

その扉は、取っ手の付いた引き戸だった。
恐る恐る取っ手に手をかけてみると、その扉は抵抗なくすんなりと開いた。
開いたその隙間からは、まだ何も見えない。そこは、真っ暗闇だった。
寒々しい通路から一転、むっとした熱気を顔に感じる。

レックスが扉の奥を覗き込んだ途端、ピタリと金属音が止んだ。

明らかな、人間の気配と息遣い。

「誰か、いるんですか…」

そう恐る恐る言った瞬間、ピュイッと、笛のような音と息遣いが聞こえた。

するといきなり、パッと彼の頭上でオレンジ色の光が灯った。
「ひっ…」
レックスは情けない声を出して後ずさる。
目をきつく閉じて、身を固くした。

しかし、しばらく時間が経てども、どこも熱くも痛くもない。
しばらくして、緊張した筋をほぐすように目をうっすらと開けると、それまでの暗闇はとうに姿を消していた。
恐る恐る見上げた頭上には、ろうそくが中に入った、これまた古臭いランプが煌々と灯っている。

(どうしていきなり、火が…)

その謎のろうそくによって照らされた部屋は、ガラクタの置き場のようになっていた。
積み上げられた工具、無造作に置かれた何かの車輪、布のめくれたソファ、作り途中の巨大な木の彫刻…。
錆びた鎧は片腕が外れている。

そして、レックスが辺りを見渡しながら虫喰いソファのめくれた布をひと撫でしたときだった。

チャリリ…と先ほどの金属音。
レックスはその音にぴたりと動きを止め、音の聞こえる方に恐る恐る目を向ける。

音を探して目を向けた先には、作りかけの、女人像の裸体の彫刻。
手を上に掲げている様は滑らかで美しく、だが腰から下はまだ木の塊のままだ。
その後ろに、女人像の子のようにさっと隠れた、小さな影を、視界の端に捉えた。

レックスは、猫を追うようにして、そろりそろりと足を忍ばせ、彫刻の裏へ回る。

そして難なく、彼は「それ」を見つけた。

その影はもう、逃げも隠れもせず、現れたレックスをただじっと見た。
瞬き一つせずに、ただじっと。

レックスもまた、それを唖然とした表情で見つめ返す。

まだ年端もいかぬ、痩せ細った少年を。

痩けた頬にも読み取れる幼さ。
年の頃は10才にも満たない位。
限界まで肉の削げ落ちた身体。
だが直線的な視線にはギラギラとまるで獣のような生気が宿る。

レックスはその視線に気圧されつつも、視線を逸らすことはできない。
むしろ見るほどにレックスはその少年を凝視せざるを得なかった。

正確には、その少年の肌の色を。

まるで分厚い曇り空のような、
淀んだ灰色の、肌を。


*ーーーーーー*



悠斗はその怒鳴り声に1度ビクッと痙攣したあと、頬杖のバランスを崩してずり落ち、その不快感に目を開けた。

それは夢の中で予想したとおりの最悪な目覚ましだった。

滅多に表情を変えない数学の依田(よだ)が始めてこのクラスで怒鳴るところを、悠斗は寝ぼけ眼をこすりながら見る。

(こんなんで怒られるなんて、いつぶりだっけ。いや、初めてかも。)

だが自分が怒られてると認識はしているのだが、悠斗は意識が朦朧として、声を出す、ということに頭が回らなかった。
クラスのシーンと静まり返った雰囲気が重いのは、痛いほどに感じている。

「…小金井、それ、起こして。」
依田は低い声で言った。


(え…俺もう起きてます…)
悠斗は心の中で突っ込みを入れる。

それに、小金井という名前は自分の近くにはいなかった気がする。
(確か、後ろの方の…)
悠斗はちらっと後ろを振り向く。

小金井(こがねい)と呼ばれたのは、淵の細い眼鏡をかけて髪をハーフアップにくくった几帳面そうな女子だった。

(趣味は読書です、って言いそう)
悠斗は自分の想像に妙に納得する。


そして、その小金井がいやいやながら起こそうとしてるのが、彼女の一つ前の席の女子だった。
「か、片瀬さん?依田先生が…」

(あ、俺じゃ、ない…)

悠斗は怒りの対象が自分ではないということにほっとし、打って変わりほくそ笑む。

不安が一気にほぐれ、途端に傍観者に回る余裕が出てきた。


小金井が何度か揺するとそのうつ伏せの彼女もまたピクッと睡眠特有の痙攣をし、ぱっと起き上がった。

その彼女にここぞと畳み掛ける依田。

「……昨日も、寝てたよな?おとといも、その前も…。最近、ずっっとだ!! 見えてないとでも思ってる?今の時点でできないと後でどんだけ…」

怒鳴られるその彼女は眠い目をこするでもなく、怒りを爆発させる依田に目を向けるでもなかった。

最近クラスの人間をだいたいは把握してきたと思っていた悠斗だが、彼女の顔と名前が一致するのは初めてだ。
どんな人なのだろう、と緊張にも似た好奇心が悠斗の視線を彼女に向けさせる。

片瀬(かたせ)、と呼ばれたその人。
切れ長の鋭い目は寝起きを全く感じさせず、 固く結んだ唇は、彼女の意志の強さを響かせるようにも思える。
だが、透き通るような白い肌や細い身体は病的にさえ見え、悠斗は無意識に顔を顰める。

教室を見渡すと、他のクラスメイトもやはり好奇心が先に立ち、彼女を見るとなしに見ているようだ。

ふと真後ろを向いて視界に入った椎本はシャーペンを握ってはいるものの首をゆらりゆらり揺らして居眠りしている。

起こしはせず、改めて悠斗は騒ぎの発端を見る。

C組の知る''依田''という人物は、黙って黒板を書き進め、たまに教科書をそのまま読み上げたりもするが、基本はあまり言葉を発さない。
数学教師としてどうなのかは別として、至って寡黙な人物だった。

それが授業を中断して一人の生徒を怒鳴る。C組にとっては大事件だ。
たぶん、学年単位でも。


依田の怒りと片瀬の反応を見比べている悠斗含むクラスメイト達。


そしてどちらかというと彼女の反応や容姿を見ていた悠斗は、その異変にすぐ気づいた。

彼女の顔色が、異様に悪いことに。

もともとハッとする程白い肌が、徐々に青ざめていくのがよくわかる。
薄い紫色に変色していく唇は見るに堪えない程だった。
何かが彼女の中で限界を迎える感じ。
ひしひしと伝わる切迫の詰まった気。
氷のように固まっていく、彼女の身体。

(これ、もしかして具合が悪いんじゃ…)


「こんな基礎すら…」
これまで延々と説教を続けていた依田の言葉は途中でいきなり止まった。
しん、と教室の空気が冷える。

何事かと生徒達は一斉に依田を見る。そしてその依田の愕然とした表情を見るやいなや、今度は片瀬の方向に視線が向いた。

クラスの生徒達と同じように視線を巡らせていた悠斗は、同じように片瀬を見ると、数秒の時間差ののち、目を大きく見開いた。


彼女の頬には、涙が伝っていた。
鋭い目から次々と音もなく落ちる。
嗚咽などしていない。
鼻をすすってもいなかった。
呼吸をしているかも疑いたくなるほど身体を固めていた。
顔色は真っ青。
彼女は静かに、ただ静かに泣いていた。

何故か悠斗の腕に
ヒヤリと立った鳥肌

誰も何も言わない。
だがこの教室の空気がざわついたのは明らかだ。

なんだか神妙な雰囲気になった教室の居心地の悪さを紛らわすように、悠斗は前を向き、ノートのページを意味もなく音を立ててめくったりした。

その重苦しい雰囲気に飲まれて、居心地を悪く感じる悠斗のような者は、クラスのそこかしこにいた。

だがそれ以上に目に付くのは声を出さず目線を交わして笑い合う女子達の中心的グループだった。

ノートをめくる手をぴたりと止めて、悠斗は目ざとくそれを見た。

交わされる目線
口元の笑み
声なき笑い声

それを見て悠斗は「かたせ」という人物がこのクラスでどういう存在なのかを瞬時に理解した。

悠人自身に居場所があるからこそ生まれた余裕。経験があるからこそ生まれた判断力。
「知るだけ」の自分に虚しさを感じる。

悠斗は教室の出来事から視線を外して下を向いた。


「…とりあえず寝るな」
依田の声はもう小さい。

畳み掛ける言葉を紡げなくなった数学教師は、早々に説教を切り上げて、「さて…」とやり辛そうに、また言葉数の少ない授業を再開した。

再開後、クラスメイト同士顔を見合わせて、肩をすくめるなり、驚いた顔をするなり笑うなり、知らん顔をするなり、皆なにかしらの反応はして、さらにそれを共有している。

こうやって明日明後日には学年中に共有されるのだろう。

噂話の格好の餌食なのだ。
寡黙な教師が怒鳴ったことも、怒鳴られた女子が泣いたことも。
その女子の、立ち位置も。
水を得た魚のように噂は勢いを減ずることなく走り続ける。
悠斗はそれを身を持って知っている。


緊張感漂う授業も早々に終わって、少し長めの休み時間になった。
移動教室もないので、特にやることのない悠斗と椎本は、携帯でそれぞれゲームをやって時間を潰していた。

お互い無言だったため、周りの音がよく耳に入る。
特に聞こうと耳をそばだてていたわけではないのだが。
悠斗は、淀んだ囁きを耳にした。

「見た?」
「見た、見た」
複数の可愛らしい高い笑い声。
「なになに、どうしたの」
「さっきの、かた…」
「しーっ!」
「じゃーわからないように呼ぼ」
「んじゃK」
「えー!わかりやすすぎ!」
「なんでもいいやん。AとかBとか」
「じゃあB」
おっけー、と賛同の声が、気味悪いほどにぴったり揃っている。
「Bまじ引いたわー」
「誰とも関わろうとしないで偉そーに1人でいるくせに、怒られて泣くとか」
「じつはビビリ」
「かわいそーって思われたいのかな?」
「あれかな、ツンデレキャラ気取り!」
「っはは!それうける!」
「ちょ!声でかい!」
「なんであーゆーコってクラスに1人は絶対いるんだろーねー」
「昔っからその1人に当てはまってきたんじゃない、あれ」


始終、高い笑い声は響き続ける。


悠斗はどこも変わりばえしない噂話と嘲りを右から左に耳に入れ流しながら、後ろの席の椎本と、目線を交わした。

「怖いな。」
「な。」

そうしてしばらく黙った椎本がいきなりぽつりと言った。

「俺あの人同じ中学なんだわ」
「あの人、って、かたせって人?」
「おぅ。クラスも一緒だった」
「へー。しゃべった?」
「委員長副委員長ってなったことがあって、まぁちょっとだけな。シビアだけど別に悪い人じゃないと思うぞ。たぶん」

(へー)

悠斗は、ロッカーに立つ片瀬の姿を見つけると、それをそっと眺めた。

女子にしては割と背が高く、それに制服の上からでもわかるほどに細くて痩せぎすな身体だった。
頼りない白い細首に黒いショートカットが揺れる。長めのスカートから伸びる脚も、ワイシャツから少し見える手首も、悠斗の力でも折れそうなほどに細い。

そしてふと、その横顔を見て思った。
(前の、俺みたい)

そのしゃんと正した姿勢。硬い無表情。

周りの会話を耳に入れないように。
表情を変えないように。
強い鉄壁を張って。
何にも負けないように
何にも影響されないように


その鉄壁に呼応して、周りの女子達が、新たにもう一つ壁を作り上げている。

彼女の周りは強固な二重壁で覆われているのだ。
ほんのひと月ふた月前の悠斗がそうだったように。


悠斗は彼女から目線をそらすと、再び携帯ゲームに目を向けた。
協力プレイのできる最近人気のアドベンチャーゲーム。
その画面に、「ハギ」「やたっち」「タイガー」「康平」「ゆうと」の名前がぽんぽんと現れた。

悠斗は開始ボタンを押しながら笑った。

(まあ、関係ないか)




次の日、片瀬は学校に来なかった。





ノートを書く鉛筆の音と、黒板とチョークの擦れる音だけが規則正しく聞こえる、頬が火照る程暖かい教室。
昼休み後、満腹の5時間目。

睡魔は数学の細かい文字と暖かい日差しで生徒を眠気に誘い込む。
生徒達はうつらうつらと目を閉じ始める。

悠斗も、その一人である。

肉体的にも精神的にも厳しい部活を終えて帰り、夕飯を作って、食べて、家事を終えてからお風呂に入って、少し勉強したらもう日付が変わる、そんな生活。


悠斗は今、必死に眠気と戦っていた。
(問題、解かないと…)

だが、戦も虚しく、今彼の手から、シャーペンがカチャンと音を立てて落ちた。


*ーーーーーー*


「んぁ…」

悠斗は寝起きの間の抜けた声を出して、ごろんと狭苦しく寝返りをうった。
なんだか肌がチクチクとして眠るのにはとても不快だ。
だがその唸り声を出してから10秒ほども経って、悠斗ははっと息を飲み込んだ。

出したその声質は、明らかに自分のものと異なっていたことに気づく。

(違う、これは…)

これは
覚えている。

この感覚は。

このちぐはぐな、感覚は。

重い瞼をうっすらと開いた彼は、しかし次の瞬間、驚嘆と歓喜の叫びを上げた。

「…っあぁ!あー!」

瞳に映る、汚れた天井。
懐かしい、土の匂い。
昼間のざわめきが耳をくすぐる。
空き窓から差し込む太陽の光。
かざした手のひらは熱を帯びる。

夢から離れて、現実世界で2週間。
すでに半ば諦めかけていた悠斗は、なんともあっけなく再びここにたどり着いた。

''レックス''はまだだるい体で起き上がる。
そのままぼぅっと自分の足のあたりを見るとなしに見ているうち記憶の形が徐々に明確になっていく。

そう、数学の問題を解いているうちに気づかず寝てしまったのだった。

現実においては、特に学校生活においては完璧主義ゆえに、授業中の居眠りという形で夢渡りするのは始めてだった。

「…すぐに起きれるかな。」
久しぶりの夢なのだが、あまり悠斗は乗り気ではない。
こうしてる今も黒板はゆっくりと進んでいることに、不安げな表情を浮かべる。

逞しい自身の身体の懐かしさに浸りつつも、不安が悠斗を焦らせている。

机で、いつものように7時間を寝てるということになったらそれこそ一大事だ。
時間は一定のリズムなのだろうか。

時計をまだ買っていなかったことを今になって、後悔している。

でも、きっと誰かが起こしてくれる。例えば…

___先生、とか。

「うぇっ…それ最悪だ…」

言いつつも、レックスは自分の身体を鏡で再度確認しに行った。目で一度見ないとどうも落ち着かないのだ。
いつも通り、逞しい体。
ボサボサだが、れっきとした薄い金髪。紫紺の目。
そして体調も良好だった。

熱が出て寝込んで、それ以来の夢渡りだということを、レックスははっきりと覚えている。

(なんで急に、渡れたんだろう…)

そんなことを考えながら、もはや軽くなった体で、肩と首を回すと骨のポキポキと鳴る音がした。なんだか、しばらく動いていない感じがする。

軽い唸り声をあげて思いっきり泥臭い空気を吸い込んで、伸びをする。一気に脱力すると、軽い立ちくらみに襲われ、揺れる視界の中慌てて椅子に腰を下ろす。

徐々に収まる目眩に一つため息をつくと、そのままデスクに顔を突っ伏した。
頭のだるさもだいぶ抜けて、意識も明瞭になってきた。
今、何時なんだろう、と周りを見渡しかけて、再度時計を持っていないことを確認させられる。


そんなとき、ふと、デスクにある、黄色く変色して端が所々切れた紙の束と、それにしては比較的に綺麗な茶色と白のまだらの羽根ペンに目がいった。

その羽根ペンの自然な美しさに惹かれ、手にとった。掃除をしたときもあったのは覚えているのだが、まじまじと見たことがなかった。
こうして見るとなかなかファンタジー世界な想像力を掻き立てるものがある。

根元が斜めに切り取られており、おそらくそこにインクが入りやすいようになっているのだろう。

(へぇ~。本物だ。本当にこれで書けるのかな…?)

ペンスタンドの中のインクは、端の方が少し黒く固まっている。それに微かに刺激臭が漂う。鼻をつまみたくなるような、しかしもう一度嗅いでみたくなるような。
何にせよ使うに問題はなさそうだ。

その奇妙な匂いのするインクをちょっとだけつけて早速紙に羽ペンを走らせてみる。

「あ、意外と描ける。」

適当に好きなものの絵を描こうとしたが、自分の好きなものが何なのかよくわからず、意味もなくインクがなくなるまでぐるぐると渦を描く。
インクが掠れてきたところで、ふとあることを思い出した。

(そういえばさっきの数学の問題、途中のままだった。)

羽ペンを使う目的が出来たことに内心微笑むレックス。

ふいに彼は、再び羽の根元にインクをつけると、その紙に数学の公式をガリガリと書き始めた。
この世界に来たからといって、元の世界の文字は忘れていないようだ。
二行三行とペンは進み、気がつけば軽く座っていただけの姿勢が、完全にデスクに向き、勉強モードになっていた。

「いや…このmに4が入るなら…ここの角度は…」
独り言を呟きながら問題を解く、レックス。
黄色いボロボロの紙が細かい文字で黒く埋まっていく。
ところどころ朽ちた木の机は文字が書きづらい。

何分経過したのか、レックスはデスクから顔を上げる。

「よし!やっぱ4でいいんだ」

証明された数学の公式で埋まった羊皮紙を前に、ニンマリと微笑むレックス。

だがそう微笑んでみせたものの、その表情は徐々に固く不安げになっていく。
夜の夢渡りであれば、こんな表情になることもないだろう。
レックスがこうしてる間も、悠斗は無防備に眠っているのだ。


「いや帰れる。授業中だし、起きるに決まってる。」
レックスは自分に言い聞かせるように小さく言った。

でももし、いつも通り寝てしまったら?

そう考えると途端に、様々な光景が頭に浮かんだ。

起こしても起こしても起きない悠斗。
見守る中保健室に運ばれる彼の身体。
意識不明。病院。家族。

そしていつも通り約7時間が経つとあっさりと悠斗は目が覚める。

「絶対そんなの嫌だ…」

不意に声を出したレックスはその部屋をぐるぐると歩き回るが、いてもたってもいられず外へのドアをガコっと勢いよく開けた。

日差しがすっと部屋の入り口を照らす。

いつもと変わらず話し声怒鳴り声の賑やかな宿舎街。
穏やかに流れるこの世界。
穏やかであればあるほど、這い寄る悪寒がレックスを襲う。

(だめだ)
レックスは開けた扉を力任せに音を立てて閉めた。だが、そんなことで気は紛れない。
目を瞑ったり、深呼吸をしてみたりもするが、何も変わらなかった。

久しぶりに夢渡りが出来て嬉しい。
だけど、今は勘弁してほしい。
今は
今はだめなんだ
誰にも知られたくないんだ
俺だけの夢なんだ

夢を見て眠る自分が教室にいる。
そう考えただけで鳥肌がたつ。

(本当に、どうしよう)

レックスは、惰性にまかせて藁の寝床に座り、頭を抱える。風呂に入っていない金髪は、艶も何もなくボサボサだ。

勢いで頭をかきむしる。ガシガシと髪の毛の擦れる音が部屋に響く。

だがそのふとレックスは違和感を感じ、頭にやった手をぴたりと止めた。

違和感の正体は、周りの音を捉えなくなった自分の耳だ。
ようやく、合図がきたようだ。
彼はそれに気づくとふっと微笑み、そのまま藁の寝床にドサリと倒れる。
不明瞭になってフェードアウトしていく視界をこれほどまでありがたく感じることもない。

よかった
帰れそうだ

誰かが起こしてくれたのだろうか。




「おい!!そこの!…寝てて黒板が読めんのか?!」

教室に、怒鳴り声が響く。

ぼんやりと目覚めた悠斗。
だが、もしやこれは悠斗の思い描いた最悪の状況かもしれない。


*ーーーーーー*


争いの傷口もまだふさがらない、次の日のことだった。

朝のホームルーム5分前に登校した悠斗は、慌てて教科書を机に詰め込んでいた。
だが、束にして1度に詰め込むものだから、グシャッと奥で嫌な音がする。

(うわ、プリント折れた)

悠斗は1度入れた教科書を全て机の上に積み上げ、机の奥に手を突っ込んだ。

手に、折れた紙の感触。
その手の中にあるものを覗き込む。

だがそれは授業のプリントなどではなかった。

(え?)

手の中の、ハート型に折られた紙。
それを見た悠斗はぞっと冷や汗をかき、瞬時に再びその手を机に突っ込んだ。
周りをキョロキョロと伺うと、こっそりそのハート型を開く。


「坂城くんへ…♡

伝えておきたいことがあるの
放課後、体育館裏で待ってます

みんなには、秘密にしてね…?」

と、
可愛らしい花の散りばめられた紙には、女の子らしい丸みを帯びた字で、
こう、書いてあった。

「ひっ…!」
悠斗は紙を筆箱に押し込んだ。

(これって…これって…)

そうして悠斗は今日、体育館裏に行くまでの長い時間を、昨日とは違った意味で憂鬱に過ごしたのであった。


そして長くて待ち切れない1日を過ごしたその放課後。

息を切らして体育館裏に着いた時、そこにはまだ誰もいなかった。

「はぁ…」

悠斗は情けないため息をつく。
本当にこんなことがあっていいのだろうか。
自分にもとうとう来る時が来たのか。
いやいやそうと決まったわけでは。
このあいだまで言葉すらほとんど出さなかったような自分になんて。
しかしもしかして本当に。
返事、返事は、なんて言えば…
うわああああああ無理!


だがそんな悠斗の思考は、後ろから聞こえた明るい声に、一瞬で粉々に粉砕された。

「やぁやぁやぁ、さかぎくん」

「!!?」

背後から砂利を踏み鳴らしながら歩いてくる人影に、悠斗は顔を引きつらせた。

「ぶ…部長!」
「久しぶり~♪部長先輩だよー」

(なんてこった)

愕然とする悠斗に、にやにやと頬を緩ませながらいかにも愉快そうに寺尾は近づいてきた。
「期待した?ねぇ期待した?」

「…からかわないでください…」
悠斗は頭を抱える。

まさか自分がこんなものに引っかかるとは思いもしない。
数分前の自分は一体。

悔しさを募らせる悠斗を、まあまあとなだめる寺尾。
だが一通り謝ると彼女は笑いを収め、一転して真剣な表情で言った。

「あのね、今日呼んだのはね。」

体育館裏の影の温度が、数度下がったように感じた。

寺尾は、表情を固くする。
悠斗がふいと目をそらす。
さながら反抗期の少年のようだ、と自分でも思った。

(また部活に戻ってこい、かな。)

「椎本くん、大変そうなんだ」
悠斗はわざとらしくため息をつく。
「それは、俺を連れ戻せなくて、ですか?でも俺、…」

だが寺尾は横に首を振り、極めて言いづらそうに言った。
「2年生達に、かな」

「…え?」
悠斗は顔を上げた。

(とら、が…?)

『部活ってこんなもんだって』
そう言ったのは、確かに椎本だった。
あのとき笑っていたのは、確かに。

寺尾は静かに言った。
「今、椎本くん、一人なの。それで2年がいつも以上に…」

悠斗ははっとする。
「いつも以上に…」の、その先は言わずとも伝わった。

どこからともなく、悠斗の脳裏に回顧される、入部後の日々。

「下手くそ」は当たり前だった。

「今年の男子はハズれ」「女子は逸材がいるのに」「初心者とかめんどい」
そんな言葉を臆面もなく本人達の目の前で言う2年生。

それを、2人でようやっと耐えていたことに、今になって思い出す。

あのときは、椎本が、2年にいくら何を言われても自分に笑いかけてくるところに、嫌気がさした。惨めになって、ひがんだ。
''いいよね、メンタル強い奴は''、と。

そんなこと、あるわけないんだ。
大勢の2年と、1人の1年。
『はい』としか言えない状況が、大丈夫なわけがない。

黙り込む悠斗に、寺尾が言った。
「椎本くんは、『つられて』じゃなくて、坂城くんが『いるから』頑張ってたんじゃないのかな」

寺尾の言葉は、すんなりと抵抗なく悠斗の心に入ってきた。
同時に、後悔を生み出した。

それなのに俺、自分だけの都合で、とらを孤立させたのか。
今日の剣道場でも、とらは、一人で正座してるんだろうか。

悠斗はおずおずと聞く。
「あの、喧嘩、した話…」

「聞いた聞いた!案外やるのね君たち!びっくりしたー!」
寺尾は声を上げて笑った。

悠斗はいたたまれず、うつむく。
「俺が、怒らせて…」

そんな悠斗に、寺尾は明るく言い放つ。
「まーまー、細かいことはわかんないけどさ!とりあえず一回、来てみたら?明日からでいいからさ!ね!」

そして、付け加える。

「3年は…部活内では、あんまり1.2年と話すチャンスないからさ。こうやって呼ぶしかなくって。ごめんね。」

うつむいていた悠斗は、顔を上げた。

「いや、ありがとうございます」

寺尾は手を振って、部活に戻った。

悠斗はポケットに入れたハートの手紙を、もう一度読み返すと、四角く折って再びポケットにしまい込んだ。



翌日、放課後。

下校する生徒、部活へ行く生徒がわらわらと廊下を埋めつくす。

その廊下を一人で歩き道場へ向かう椎本。
その後ろから悠斗が、わざと肩をぶつけるようにして椎本の横に並んだ。

「早く道場行こ」

一瞬呆気にとられた椎本は、しかし悠斗の顔を改めて見るとにやりと不敵に笑う。

「じゃあ着くの遅かったほうが筋トレプラスな」


*ーーーーーー*