>竜馬の土佐訛りを聞いた人物がおります。
中江篤介(とくすけ)、後の中江兆民、フランス、ルソーの民約論を自ら邦訳、維新後、自由民権運動の旗手となり明治政府と格闘し続けた硬骨漢です。無論、土佐人で竜馬とは城下で近所の少年ですが、凄まじい勉学の徒。篤介、十代の頃の高知城下は勤王・佐幕の暗闘が続き、両派の斬り合うテロ事件が続発。
ある深夜のこと、その修羅場の真ん中に飛び込んで来て、「喧しい!あっちでやれ」と叫び叱り、勤王・佐幕の両派を唖然とさせた少年があったそうです。少年は再び家へ駆け戻り勉強机に座り直した、というエピソードは確か篤介のことと記憶しております。その修学の姿に鬼気が籠っています。まあ、扱いにくい小僧であったことは間違いありません。
その篤介、慶応年間に土佐留学生に選抜され、長崎を流浪しています。留学生とはいえ他郷での暮らしは貧を極め、このプライド高き英才も竜馬の海援隊屯所に転がり込んでいます。
寝食とも竜馬のフトコロに甘えつつ、この小僧はどの隊士とも口をきかず、フランス語の辞書など広げて、小机に向かっていたのでしょう。そんな篤介に竜馬が声をかけています。篤介の証言です。
豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人な
りと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、「中江のニイ
さん煙草を買うて来てオーセ、」などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屢々(しばしば)な
りき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜け上がり居たりき。
(幸徳秋水『兆民先生、兆民先生行状記』)
この生意気な小僧も竜馬が声をかけるとフワリと腰が浮いたのでしょう。「快然として使ひせしこと屡々」と大きな言葉をつかっていますが、煙草買いですので将(まさ)に子供の使いです。
その子供の機嫌を損ねずに奔(はし)らせる響きが竜馬の声にはあったのでしょう。でも、その後のひと言は気になりますねえ。
眼は細くして其額は梅毒の為め抜け上がり
のここです。
この一文をして、竜馬性病重篤説を意地悪く語る人もいます。しかし、同時期に撮影された写真を見ても、また慶応年間の竜馬の行動記録を見ても梅毒末期の症状はどこにもありません。
篤介はなぜそんなことをいったのでしょうか。
彼自身が、竜馬を英雄と呼び、なんとなくエラキ人と慕っている少年なのにと不思議でしたが、近頃
私なりにひとつの結論を出しました。
梅毒説を篤介少年に吹き込んだのは竜馬自身でしょう。
篤介は長崎の花街どころか、女性の手も触ったこともないガリ勉です。
この英雄児はガリ勉小僧の異性への無知をからかいつつ、目を細めて、色街の病いで足腰が立たぬ故に中江のニイさん煙草を買うて来てオーセ、と芝居がかって哀願したと思われます。これもまた、土佐の与太でしょう。
余談に余談を継ぎます。
この篤介こと中江兆民は維新後は竜馬の系譜を継ぐ者として民権運動の先頭にたちます。兆民も又、土佐の多くの若者に慕われます。
そのひとりに幸徳秋水がいます。「兆民先生」と呼び、終生敬慕を惜しまなかった土佐人です。
兆民なき後、土佐の民権運動の旗手となり、さらに土佐の若者を呼び集めて、激しく明治政府と格闘します。
が、熱を帯びやすき土佐訛りです。その荒ぶる言葉と声の加速により政府自体を否定する過激の思想にまで達してしまったのでしょうか。無政府主義者へと飛躍し、大逆事件と呼ばれるテロ計画が発覚します。終に秋水は死罪により処罰されます。冤罪を仕掛けられた可能性大なのですが、幸徳秋水の名はどこか仄暗きテロリストの響きで今も史上に刻まれたままです。
ただ、この秋水を、兆民が竜馬を慕ったように、慕った土佐の若者がいました。
井上某です。秋水に憧れた井上某は絶望し、この一族は密かに土佐を脱し、他郷に移り住んだとか。
福岡県の筑豊地方の炭鉱町で井上家はその血脈を繋ぎ、明治・大正・昭和と命を繋げ、戦後は歯科医院を営みつつ、井上家に待望の嫡子が誕生しています。当主は秋水を慕った若者の血気を見ず、寧ろ理想に倒れた詩人に憧れた清さと見て、ひそやかにその矜持を我が子に託します。 秋水の思いを汲み揚げる男子たれと揚水(あきみ)と名づけます。その人は今、歌手となり清らかな声で歌っています。揚水こと井上陽水さんです。
この人も声のいい人です。
(井上家の伝説として、母堂から直接お聞きした話です)<
『私塾・坂本竜馬』 武田鉄矢 小学館 P27~
このエピソードの中で一番気に入ったのは竜馬の言葉でした。なんとも暖かな風を感じます。篤介は竜馬の亀山社中に居候のような形でころがりこんでいるものの、生意気で勉強なら誰にも負けぬというプライドの持ち主であっただけに、居心地が悪かったろうと察する。。竜馬以外の隊士が「おい」とか「小僧!」とか声を掛けようものなら無視したりするので、「世話になっているくせに、あいつはとんでもない奴じゃ」とか何とか評価は低かったのであろう。
しかし竜馬は違っていた。「中江のニイさん」という呼びかけにものすごく暖かいものを感じる。頑なになっている少年のこころを溶かさんばかりの声掛けである。これを竜馬は作為的にわざとやったのではないと思う。変りものであろうと、可愛がる気持ちがあるからその気持ちはガリ勉くんにも届いたのである。大体陸奥陽之助(のちの陸奥宗光)のような扱いにくい若者でさえなついていたほどである。
「中江のニイさん」で思い出したのがジョージ秋山の劇画「はぐれ雲」で主人公が若い娘や人妻をみかけると「おねえ~ちゃん」 と声をかけてましたね。まあこれは関係ないかw
「買うて来てオーセ」についても年下のものに対して粗略な言葉を使っていない。篤介は「ぐっときた」であろう。「待ってました」。それゆえ篤介は「快然として使いし」とあるから嬉々としてお使いをしたようである。