>ここまで、事実を時間軸に沿って書いてきた。しかし、事の軽重からいうと、自販機の据え付けから、修理、撤去にいたるサービス網を作り上げたことが、富士が短期間にトップに躍り出た決め手であったとの指摘がある。
米国直輸入の自販機販売システムでは、自販機メーカーは注文を受けた機械をトラックに載せて、飲料販売会社に届ける。あとは、注文があれば故障した機械の部品を納入先の会社に送る。それ以上のことはしない。これが米国型の自販機メーカーの仕事であった。日本で最初に自販機を作った三菱重工業ー日本ベンドー、ナンバー2の三洋電機は、この方式で事業を展開していた。
コカコーラのボトリング会社のような大きなところは、面倒であっても自社で設置、修理の要員を確保して、自販機を使うことができる。しかし、中小の飲料販売会社やオペレーターが自ら設置、修理をすることは大変であった。このため、自販機は大手飲料会社以外、思う存分使うことはできなかった。
富士電機冷機の社長は兼本邦興、永井隆、自念淳、小峰達男と続くが、四代目社長の小峰達男は東京大学経済学部の出身、入社後七年間、富士電機の奥の院、人事労務畑にいた、富士電機本流の人である。
本来なら富士電機本社に居続け、会社の方向を指示する役割を果たす運命にあったが、富士電機が家電撤退に踏み切ったとき、リストラ、人員整理を推し進めるため、富士電機冷機の前身、富士電機家電に出向し、そのまま自販機の世界の人となった。
この小峰達男が社長時代、四日市大学の特別講義で富士の自販機躍進の原因を分析している。
「ビール系飲料メーカー、缶コーヒーのメーカーはいいものを次々作って、自販機で販売したい。しかし、自販機を買うお金はあるが、採用した自販機を日常維持管理していrく、とくに故障したときに修理のために現場に駆けつける、そういう全国的なネットワークと体制がなかった。
機械はお金を出せば買えるが、この種の体制は人間のトレーニングを含め、時間がかかる。全国のネットワーク作りには膨大なお金がかかる。
機械のメンテナンスを全国ネットでやってくれるなら自販機をやりたい、という中身メーカーさんがたくさんあって、それで私どもはメンテナンスをメーカーとして引き受けようと決断した」(『21世紀の企業経営』永九出版、による。一部表現を変更)
小峰達男は、このメーカーが自社製品をメンテナンスする方法を「日本型モデル」と定義している。このモデルには、自販機購入の際の金融や購入者に対する中身商品の供給も含めていいのではないか。
営業マンの永井隆や自念淳が利用者のニーズを体で受け止め、新しいシステムを作ろうとしていたとき、小峰達男は優れた頭脳を駆使して、その理論的整合を検証して推進した。
もっとも小峰も新事業立ち上げ期の「人の力」を軽視してはいない。小峰はこの講義のなかで富士の立てた戦略仮説が勝利のカギだったといっている。
「戦略仮説を立てることは人間がやることです。モデルがないので人間の個性がにじみ出るわけです。このいい戦略仮説を立てた、さきほど申し上げた三十六歳の若いリーダーがいました。こういった人間的要素がやはり、根っこのところで一番大きな内容であったのかなという感じがします」(前掲書)
三十六歳の若いリーダーとは永井隆のこと。永井が三十三歳のエリート小峰をスカウトし、自販機グループに参加させた。
いずれにしても「日本型自販機販売モデル」は、日本に飛躍的に自販機を普及させることになるが、「アメリカ型モデル」で事業を展開していた先行会社の反発を買った。
「今だから申し上げてもいいと思いますが、このときトップの三菱重工さん、ナンバー2の三洋電機さんから、かなりの圧力がありました。とくにアメリカのベンドー社の代表が私どもに、富士電機のやり方は日本における自動販売機産業を崩壊させるものである、といいました」(前掲書)
しかし、その後の展開を見れば、自販機産業は崩壊するどころか「日本型モデルによって、繁栄への飛躍を遂げている。<
『自販機の時代"7兆円の売り子”を育てた男たちの話』 鈴木隆 日本経済新聞出版社 P175~177