>一方中国では、一八九五年に日清戦争が終わりました。日清戦争の敗戦は、清国にとって深刻な衝撃でした。なぜかと申しますと、その前のイギリス人にやられた阿片戦争というのは、何の被害も残さなかったのです。僅かな数のイギリス人の船が海岸にやってきて、河をさかのぼってあちこち砲撃をしたぐらいで、そんなことは海賊の襲来であって、中国史ではしょっちゅうあったことですから、大して衝撃を受けなかったのです。
これがヨーロッパ勢力登場の最初の現われだということになっていて、これから中国史の現代が始まったという解釈になっていますが、これはどう考えても嘘です。当時清国人は、この事態にぜんぜん衝撃を受けていませんし、ほとんど何の影響も残っていないのです。
ところが、日清戦争の影響というのは本当に深刻だったのです。これまでずっと馬鹿にしていた海の外の付き合いのないような野蛮人、中国文明のお裾分けを受けて、どうにか着物が着られて人間らしい生活ができていたような野蛮人が恩を忘れて、三十年足らず前に中華文明を投げ捨てて夷狄の文明に走った。その野蛮人の日本が、文明の本国、中国を支配している清国を打ち破るまでに成長したのです。これは何か間違っていたのではないか、と考えたのです。
満州人もその支配下にあった中国人も、これで大いに衝撃を受け、「今までのやり方では駄目だ。日本にまで負けるようではとてもやっていけない」と考えたのです。実際、日清戦争の敗戦の直後に、欧米の列強がこぞって無理な要求を提出し、あちこちの利権を無理やりもぎ取るという事態が頻発したのです。
清国の政府が考えたことは、では今までのシステムをみんな止めて日本式にしよう。日本が成功したのだから、それをそのまま採り入れればいい、ということでした。
それまでは、漢詩と漢文の作詩作文による科挙の試験で官僚を採用し経営していたのですが、これからは、外国に留学して、新知識を身につけて帰ってきたエリートを官僚に採用するという方針に変えました。外国といっても一番てっとり早いのは日本です。日清戦争が終わって、翌年の一八九六年から毎年大波のように数千人、ある年は一万人近くの清国人ーーー大部分が中国人ーーーが、日本に留学しました。
これには日本が近くて旅費が安いということ以外にもうひとつ非常に大きい理由があったのです。日本が近代化の過程の二十七、八年の間に開発した最大の武器は「新しい日本語」なのです。これは江戸時代の日本語とは全く違って、英語を基礎にして、それを直訳するというやり方で、まったく新しく開発された言葉なのです。<
日本人のための歴史学 岡田英弘 WAC p291~