珈琲と芝居と僕のこと(仮)

珈琲と芝居と僕のこと(仮)

アクセスをありがとうございます。
僕のブログは演劇とコーヒーをメインに扱っています。
よろしくお願いします。

カラオケや演技に疲れるのも理由があるんだな、と、考えさせられました。


明けましておめでとうございます。

アメブロの更新を久しぶりに行います。


本当ならいつものようにカフェや観劇した感想(←直近にキャラメルボックスと文学座のコラボ公演を観に行ったので)を綴ろうかと思ったのですが、芝居の感想を書くより気になる発見があったのでそちらを書いてみます。


最近、昔、歌えた歌や読めた本がなんとなく読みづらくなってきました。歳のせいかと思ったのですが、どうやら心臓や呼吸器系の疲れや衰えが原因らしいです。


というのも風邪で病院に行きまして、なんてことない風邪かと思えば検査を進められて検査をすることになりまして、なんと……微妙なモノが見つかりました。


心雑音です。


まだ検査は三月まで続くので断定はできないのですが、おそらく弁膜症のようなものかと言うことです。そんなに悪くはない、ただの貧血かもしれない、心雑音という心臓の中に雑音のようなものが聞こえるけれど、レベルで言ったら2くらいのレベルだと言われて、「うーん……」と、「微妙だなー……」となりました。


でも最近の疲れは紐解いていくとそれが原因でカラオケや演技や本が読めないのではないか、という推論に至りました。


疲れると言うか、飽きるんですね。

カラオケなんかはイントロの段階で飽きる。

長いなーってなって止めたくなってしまう。

芝居を見に行ってもなんか動画を見るような感覚になる。

芝居の内容よりも他のことを考えたくなる。

芝居を見ているのに別のことを考えている自分が客席に居るのです。


それって単に集中が出来てないのでは?と思っていたのですが、この心雑音のせいなのではないかという答えに思い当たりました。


もっと早くに別の原因を探っておけば時間やお金を無駄にせずに済んだのにと思いながら、レベル2で留まっているのは全然軽い話なのかもしれません。


ブログに書ける範囲の悩みだし。本当に重かったらブログにも書けない。まあ書くしかないと開き直ることも出来るかもしれませんが、でも……うーん……なんか……最近やけに眠いんですよね……うーん……この眠気ももしかしたら心雑音のせいかもしれない。


疲れるのは単なる疲れや歳や精神的な思考でもないのかもしれない。どこかに具体的な原因があるのでは?、ゲームをやっていてもすぐ飽きるし、極めつけは食事中に食事に飽きる、本当に歳のせいか?と思っていた矢作のことでしたが、心臓に持病を抱えるなんて、まさに役やキャラクターのような気持ちになりました。




終わり。



久しぶりに観劇をしてきました。

劇団文学座の研究生の発表会です。

劇団文学座付属研究所研修科 発表会『痕跡』

作 桑原裕子。

演出 小林かつや。




『痕跡』と書いて「あとあと」と読みます。
発表会ですが、チケット代は2000円。
場所は信濃町にある文学座のアトリエ。
アトリエは入り口を潜ると木や木製の下駄箱の匂いが鼻に香リます。古い木造の校舎とか図書館や古民家みたいな建物です。

ただいま公演中なので感想はネタバレを恐れて書けませんが、ミステリー寄りの作風で、母親が台風の夜に居なくなった一人息子を探す話でした。

最後の母と息子とのシーンが脳裏に残ってますがこれ以上は書けません。

上演時間は途中休憩10分を挟んで2時間45分くらいです。前半の方で状況や設定や登場人物たちが置かれた立場を観て、後半になると真実が明らかになってくので、ミステリー寄りの作風に見えました。

途中休憩から明けて怒涛の真実が通勤ラッシュのように押しかけてきても中々、最初のシーンの残像のように脳裏から消えなかった。物語を観終わった気分としては、奇妙な話を見た感覚でした。

劇団文学座研修科の発表会を観てきました。

『ゴルゴダメール』
作 篠原久美子 / 演出 中野志朗。
登場人数十二人の役と発表会としては少ない気がした。研修科だからかな。一年目二年目の混合チームが2チームあり、合わせて24名と、やはり発表会としては少ない気がした。

ある演劇ワークショップを描いた作品。都内近郊の都市にしたのは都内ではあまり見えないタイプのワークショップだからか。上演時間三時間。途中休憩10分。


ネットで検索したら出てきた無料の戯曲をダウンロードして、行きがけに電車の車内で読んで向かった。


本読んだ時の印象と舞台の形は違った。役者さんの演技が淡々としていたのは、戯曲を読んだ時の役の印象と似ていた。


時折、見入るように変わるシーンもあった。フラッシュバックしたり、態度が崩れたり、関係性にヒビが入ったり、舞台転換や照明の演出が入ったり、淡々とした中にシーンの変化があったから、なんか余計に自閉というか閉鎖的に見えた。


演劇が避難所とか拠り所になるのかな、と思った。