母が入院した。

 三年前にも一度あったので、今回で二度目となる。その時は手術と入院、リハビリを含めて一週間ほどだったのだが、今回は約二十日間で前回の倍の期間を要するらしい。

 その間、私と父との二人で生活することになる。と言っても、ふたりのリズムはバラバラで、私は昼ごろ出社するシフトが多いため、朝起きると父はもういない。二十三時には大体帰宅するものの、父はソファで転寝をしている。暫く、私の生活音が続くとその気配に気づき、むくっと起き上がって「おかえり」と、寝ぼけ眼で放つその言葉は、どこかふわふわと宙に浮かんでいて、とらえどころがない。洗面台で手を洗っているときに気づけば「ただいま」となるべく元気よく返信をすることにしている。このやり取りが私は嫌いではない。

 

 だんだんと、母が昔のように元気でいられなくなってくる感覚は、これまでに経験したことのあるあらゆる事柄と、何と並べることもできない。ただひとつ、目を背けたくなることだけは頭では理解している。

 

 母が入院した当日、さっそく外食をした。有名な定食屋さんで、メニューの上の方にある唐揚げと白身フライの定食を注文した。とても美味しかった。美味しすぎて、最初はすごく嬉しかった。白身フライを齧った時の、表面の衣と中身まで到達する食感のグラデーションが、私はとても好きで、思わず声に出して美味しいと漏らしてしまう。と、同時に母はいまどうしているだろうと考える。夕食は済んだだろうか、何を食べただろう。もう眠っているかもしれない。楽観的な母親だが、今朝見送る時、私に握手を求めてきた。元気を貰っとこうと言って。そんなことを咀嚼しながら思い浮かべて、サクサク感が無くなるまで噛み砕いて、飲み込んで、やっぱり白身フライは飲み込んだ後の口の中まで幸せだなと思って、私が作ったわけでもない目の前の残りの白身フライを、母にも食べさせてやりたいと思っている間には、口まで涙が流れてきていた。


 父とは上手くできている。家事を分担して、自分のことは自分でやる。私も含め、母が担っていた家事はほとんどで、父も勝手がよくわかってない。探り探り、不器用な男二人で暮らす生活は生きている感じがして、これまでどれだけ何もしてきていないのかを、三年ぶりに痛感して、やはり情けない気持ちになった。

 一度目の入院の頃は、父が弁当を買ってくれて、その頃私の仕事も今と違い、早く家に帰ってきていたので、時間にも余裕があったが、今は残業も多いし、毎日弁当も気が進まないので、拙い料理を少しずつしている。卵を割るのが下手だったり、包丁の扱いが危なっかしい、でもパスタは美味しく作れる私は、一人暮らししている自分を想像して、案外悪くないかもなどと思い、玉ねぎが目にしみた。


 そんな私もこれからどうなるかわからない。今のパートナーと近い将来一緒に住み始めるかもしれない。たくさんの今までと違うことが起きるだろう。今の生活のスタイルに馴染むには周りに比べれば随分歳をとった。最初は慣れないだろう。それでも、嘸かし楽しいはずだ。そんな話の手前、母のこともある。退院して暫くは手となり、足となりサポートしたい。もちろん、父もいるし、兄も離れていない場所には住んでいるから問題はない。みんなでやれるときに、必要としている人を、お互いに助け合えばいいだけのことだ。でも、少しだだけ寂しい気持ちもある。


 そんな風に段々と移ろう、これまでと違う生き方に私も、その周りも変わっていくんだろう。時間は進んでいるし、それにともない人もまた変わらなくてはならない。今ある全てを大切にして、ゆっくり育んで、貴重な時間を過ごしていかなくてはならないなと思い、久しぶりにパタパタと指を走らせた。


 これから、また梅雨が来て、すぐに耐え難い真夏がもう目の前まで来ている。すでに感じる陽気になってきている。くれぐれも皆様、体調には気をつけて下さい。では。

 ひらがなではかわいい音を出す言葉だ。これが変形して漢字になると、よもやわたしの視力では眼前から三十センチも離れると、ほぼ、漆黒の塊にしか見えない。ところで、この漢字はどうしてこんなにも、ひとつの音に対して余りあるほどの画数で割り当てられているのかはわからない。格好つけたかったのか、これを考えた人は。目立ちたかったのだろうか、奇を衒うことで自らの存在をアピールしたかったのだろうか。まあ、そんなことは考えなくていいか。どうでもいいことだ。そう、こうやってわたしはいつも通り、そんな「考えなくても良いこと」まで考えてしまう頭なのだ。ストレスだ。鬱憤が溜まっている。これは環境によるものなのか。自分自身にも原因があるのか。何かに矛先を向けないとわたしの頭は鎮まらず、煩い。


 新しい会社に入社して半年が過ぎた。そう、過ぎ去ったのだ。エスカレーターのように、乗れば止まることなく、前に踏み出さずとも、規則的に、丁寧に、そして皆平等に流れていくかのように思えたあの頃。それは思い過ごしだった。

 最初に感じた違和感はいつだっただろう。上司から異動を告げられた時だったか。綺麗な言葉を並べて薄気味悪い表情だった記憶に塗り替えてあるから、もう覚えちゃいない。でも、わたしのためだとか、一番スムーズだとか、そう言う簡単な表現だったことは記憶している。だが現実はどうだろう。上手くいっているだろうか。人一倍働いてくれていると褒めてもらっている。本当に助かっていると讃えてくれている。覚えが早いと評価してくれている。それが、なんなんだろうと思えてきた。毎日毎日、人は休み、その穴を埋めるようにその日のオペレーションをこなすための歯車となり、教育の時間は取れない。これが現実だ。かと思えば、わたしより後に入ってきた人間の教育をしている時間もある。あれ、なぜ、わたしの時間はとれず、その他の人間の時間が取れているのだろう。今考えてみても手が止まる。わからない。カーソルが青く点滅しているのをただみているだけなわたし。

 もちろんわたしだって黙っていない。教育の時間をとってください、言った。すると、ごめんね、と言う。ごめんね、か。これは何の謝罪だろうと考える。続けて、なかなか時間が取れなくて、前にやるって言ってから随分時間が経ってしまってごめんね、と。声のトーンは謝罪のそれ。眉も、目もそれだ。謝られている。わたしは、仕方ないですよね、欠員が出てオペレーションがまわらなくって、その上でさらに練習する時間なんてありませんし、へへへ、なんて笑いながらわたしもそんな顔で返事をする。言いながら、やっぱり、何に謝罪されて、わたしもなんで最後にすいませんなんていってしまうのだろうと思う。へらへらと笑いながら。そんな自分にも腹が立つ。真顔で言ってやれよ、ふざけるなって。わたしの気持ち考えてくれよって。本当に謝ってほしいのは、口にして伝えてほしいのは、そんなことじゃないはずだ。あるだろう、ずるいだろう。そんな顔をして、謝るのは。大人として、ひとりの人間として。


 そんなとき誰だって、自分ならどうするかを考えているのかな。わたしは考えてしまう。相手の思っている不安を、ひとつでも多く払拭してあげようと。

 誰か気づいてくれないか、この不安を。この気持ちをどうにかしてくれないか。うすら笑いで雑談しているそこの馬鹿な二人。その時間でわたしに教育をしてくれないか。綺麗な言葉を並べて言動一致しない上司。もっとリアルな言葉で会話しないか。もっと、もっと、もっともっともっと、なんとかならないのか。もっと声を上げないとだめなのか。この小さな世界で、わたしは何を求めているのか。あいつらにわかってもらうにはどうしたら良いのか。何度も何度も、真面目に訴えたつもりだった。あれは意味のない言葉だったのか。真剣味が伝わらなかったのか。仕方ないで片付けられない頭は煩くてしつこい。コントロールしながら右往左往しているが、そろそろ鬱陶しい。

 

 何度目か、今日はまた上司に談判してみた。これで、良い流れになるといいなと願いながら。今回は大丈夫だといいな、口約束でもない、この不安を、自分自身を納得させてあげられる流れになることを願っている。わたしにとってどうでもいいことなんて、きっとないんだろうな。では。



 これも洗礼。いや、洗礼というと失礼だ。原因は私であり、外的要因の割合は限られている。少なくとも私は悪い。この口が、頭が、行動が悪だと、きっと気づいている。


 お客様からのご指摘があった。内容は私の言い方、伝え方に関して。それ以上でもそれ以下でもない。これは正しいか。どうだろう。私はそれを延々と考える。蛇口の捻りがあまくて、ぽとぽとと落下する水のように。私は何かミスをしたか。笑顔であったか。いらいらしていたか。右目の瞼がぴくりと動いて、内心で舌を打つ。確かあの時の会話ではそうだった。そんな時、私はすぐに喋りで勝とうとする。勝つとか負けるとか、そんなことじゃない、間違っている土俵に。でも、勝とうとしている、その表現が一番正しい気がする。一度深呼吸、ふうと息をはいて見たらいい、そうすればいいんじゃないかと、今の私ならそうアドバイスできる。ただ、真っ只中の私には身体中の血液が上昇して、頭に充満して、それどころではない。


 この人に愚痴をこぼしてみよう。なんて返ってくるだろう。「接客業だからね」「上になればこういうことも増えてくるよ」そんなことは聞きたくないし、わざわざいうことではない。そんな地球は回ってるからねみたいな、うん、とか、はい、でしか応えようのない馬鹿みたいな返事は期待していない。ある人はこう言った。「ご指摘にはね〜」なるほど、返事をした。内容は自分の方が優位に立っているということを心の中で念じておくこと。うん、それもわかる。わかった。でもそれも聞きたいものとは違う。私のことを思って言っている声のトーンではない気がする。目も、そうだ。どこか悦に浸り、昔の武勇伝を語らうための扉を開こうと門の前に立っている、そんな風に易々と感じることができた。それが見えてしまって嫌だ。そうなると、もう、微々たる納得を、そのふりを見せびらかして、納得していると思わせておくことしかできない。いらねえけど、ありがとう。


 私の本当に欲している、待っている返事は「鬱陶しな。終わったら暴飲暴食しよう。一緒に馬鹿みたいに好きなもん食べよう」がほしい。これ以外を言えないなら来なくていい。ノックもせずに勝手に入ってきて、慰めるような真似は、下手くそならしなくたっていい。勝手に気持ちよくなるなよ。私は許可してない。返って余計に苛立つ。それでも、言われてしまえば、私は演じてしまう。この体の煩わしい仕様にはうんざりする。感激の目を向けて、えっへんを誘ってしまう。怠い。飽き飽きするその頻度が、円を一周するそのスピードが、最近また早くなった。

 

 私は明日の戦闘が終わったら、マックでポテトを買って、一番大きいサイズを頼んでやる。チキンナゲットも頼んでもいい。その帰りにコンビニで高くて甘いスィーツを二個ぐらい買って帰ったっていい。深夜、寝る前に、コーヒーを淹れて、本を見ながら、阿呆みたいに食べてやる。カップ麺だって許す。とびきり熱々の匂いの湯気を、体全体で吸い込んで、その後ずるずると麺を啜り、満腹で眠ろう。それでも鎮まらない怒りや悲しみは、帳尻が合うまで試行錯誤しよう。ゲームしてもいい、友達を誘ってもいい、その時の私に任せよう。

 全く、どいつもこいつも、自分勝手で忌々しい。やるなら勝手にやってろよな。


 珍しく綺麗に化粧をせずに言葉を並べて見ました。本当、嫌ですね。どうなってるんだか。こんな私にも困ったものです。では。