ひらがなではかわいい音を出す言葉だ。これが変形して漢字になると、よもやわたしの視力では眼前から三十センチも離れると、ほぼ、漆黒の塊にしか見えない。ところで、この漢字はどうしてこんなにも、ひとつの音に対して余りあるほどの画数で割り当てられているのかはわからない。格好つけたかったのか、これを考えた人は。目立ちたかったのだろうか、奇を衒うことで自らの存在をアピールしたかったのだろうか。まあ、そんなことは考えなくていいか。どうでもいいことだ。そう、こうやってわたしはいつも通り、そんな「考えなくても良いこと」まで考えてしまう頭なのだ。ストレスだ。鬱憤が溜まっている。これは環境によるものなのか。自分自身にも原因があるのか。何かに矛先を向けないとわたしの頭は鎮まらず、煩い。


 新しい会社に入社して半年が過ぎた。そう、過ぎ去ったのだ。エスカレーターのように、乗れば止まることなく、前に踏み出さずとも、規則的に、丁寧に、そして皆平等に流れていくかのように思えたあの頃。それは思い過ごしだった。

 最初に感じた違和感はいつだっただろう。上司から異動を告げられた時だったか。綺麗な言葉を並べて薄気味悪い表情だった記憶に塗り替えてあるから、もう覚えちゃいない。でも、わたしのためだとか、一番スムーズだとか、そう言う簡単な表現だったことは記憶している。だが現実はどうだろう。上手くいっているだろうか。人一倍働いてくれていると褒めてもらっている。本当に助かっていると讃えてくれている。覚えが早いと評価してくれている。それが、なんなんだろうと思えてきた。毎日毎日、人は休み、その穴を埋めるようにその日のオペレーションをこなすための歯車となり、教育の時間は取れない。これが現実だ。かと思えば、わたしより後に入ってきた人間の教育をしている時間もある。あれ、なぜ、わたしの時間はとれず、その他の人間の時間が取れているのだろう。今考えてみても手が止まる。わからない。カーソルが青く点滅しているのをただみているだけなわたし。

 もちろんわたしだって黙っていない。教育の時間をとってください、言った。すると、ごめんね、と言う。ごめんね、か。これは何の謝罪だろうと考える。続けて、なかなか時間が取れなくて、前にやるって言ってから随分時間が経ってしまってごめんね、と。声のトーンは謝罪のそれ。眉も、目もそれだ。謝られている。わたしは、仕方ないですよね、欠員が出てオペレーションがまわらなくって、その上でさらに練習する時間なんてありませんし、へへへ、なんて笑いながらわたしもそんな顔で返事をする。言いながら、やっぱり、何に謝罪されて、わたしもなんで最後にすいませんなんていってしまうのだろうと思う。へらへらと笑いながら。そんな自分にも腹が立つ。真顔で言ってやれよ、ふざけるなって。わたしの気持ち考えてくれよって。本当に謝ってほしいのは、口にして伝えてほしいのは、そんなことじゃないはずだ。あるだろう、ずるいだろう。そんな顔をして、謝るのは。大人として、ひとりの人間として。


 そんなとき誰だって、自分ならどうするかを考えているのかな。わたしは考えてしまう。相手の思っている不安を、ひとつでも多く払拭してあげようと。

 誰か気づいてくれないか、この不安を。この気持ちをどうにかしてくれないか。うすら笑いで雑談しているそこの馬鹿な二人。その時間でわたしに教育をしてくれないか。綺麗な言葉を並べて言動一致しない上司。もっとリアルな言葉で会話しないか。もっと、もっと、もっともっともっと、なんとかならないのか。もっと声を上げないとだめなのか。この小さな世界で、わたしは何を求めているのか。あいつらにわかってもらうにはどうしたら良いのか。何度も何度も、真面目に訴えたつもりだった。あれは意味のない言葉だったのか。真剣味が伝わらなかったのか。仕方ないで片付けられない頭は煩くてしつこい。コントロールしながら右往左往しているが、そろそろ鬱陶しい。

 

 何度目か、今日はまた上司に談判してみた。これで、良い流れになるといいなと願いながら。今回は大丈夫だといいな、口約束でもない、この不安を、自分自身を納得させてあげられる流れになることを願っている。わたしにとってどうでもいいことなんて、きっとないんだろうな。では。



 これも洗礼。いや、洗礼というと失礼だ。原因は私であり、外的要因の割合は限られている。少なくとも私は悪い。この口が、頭が、行動が悪だと、きっと気づいている。


 お客様からのご指摘があった。内容は私の言い方、伝え方に関して。それ以上でもそれ以下でもない。これは正しいか。どうだろう。私はそれを延々と考える。蛇口の捻りがあまくて、ぽとぽとと落下する水のように。私は何かミスをしたか。笑顔であったか。いらいらしていたか。右目の瞼がぴくりと動いて、内心で舌を打つ。確かあの時の会話ではそうだった。そんな時、私はすぐに喋りで勝とうとする。勝つとか負けるとか、そんなことじゃない、間違っている土俵に。でも、勝とうとしている、その表現が一番正しい気がする。一度深呼吸、ふうと息をはいて見たらいい、そうすればいいんじゃないかと、今の私ならそうアドバイスできる。ただ、真っ只中の私には身体中の血液が上昇して、頭に充満して、それどころではない。


 この人に愚痴をこぼしてみよう。なんて返ってくるだろう。「接客業だからね」「上になればこういうことも増えてくるよ」そんなことは聞きたくないし、わざわざいうことではない。そんな地球は回ってるからねみたいな、うん、とか、はい、でしか応えようのない馬鹿みたいな返事は期待していない。ある人はこう言った。「ご指摘にはね〜」なるほど、返事をした。内容は自分の方が優位に立っているということを心の中で念じておくこと。うん、それもわかる。わかった。でもそれも聞きたいものとは違う。私のことを思って言っている声のトーンではない気がする。目も、そうだ。どこか悦に浸り、昔の武勇伝を語らうための扉を開こうと門の前に立っている、そんな風に易々と感じることができた。それが見えてしまって嫌だ。そうなると、もう、微々たる納得を、そのふりを見せびらかして、納得していると思わせておくことしかできない。いらねえけど、ありがとう。


 私の本当に欲している、待っている返事は「鬱陶しな。終わったら暴飲暴食しよう。一緒に馬鹿みたいに好きなもん食べよう」がほしい。これ以外を言えないなら来なくていい。ノックもせずに勝手に入ってきて、慰めるような真似は、下手くそならしなくたっていい。勝手に気持ちよくなるなよ。私は許可してない。返って余計に苛立つ。それでも、言われてしまえば、私は演じてしまう。この体の煩わしい仕様にはうんざりする。感激の目を向けて、えっへんを誘ってしまう。怠い。飽き飽きするその頻度が、円を一周するそのスピードが、最近また早くなった。

 

 私は明日の戦闘が終わったら、マックでポテトを買って、一番大きいサイズを頼んでやる。チキンナゲットも頼んでもいい。その帰りにコンビニで高くて甘いスィーツを二個ぐらい買って帰ったっていい。深夜、寝る前に、コーヒーを淹れて、本を見ながら、阿呆みたいに食べてやる。カップ麺だって許す。とびきり熱々の匂いの湯気を、体全体で吸い込んで、その後ずるずると麺を啜り、満腹で眠ろう。それでも鎮まらない怒りや悲しみは、帳尻が合うまで試行錯誤しよう。ゲームしてもいい、友達を誘ってもいい、その時の私に任せよう。

 全く、どいつもこいつも、自分勝手で忌々しい。やるなら勝手にやってろよな。


 珍しく綺麗に化粧をせずに言葉を並べて見ました。本当、嫌ですね。どうなってるんだか。こんな私にも困ったものです。では。

 明けましておめでとうございます。今年ものんびりやって参ります。毎度のことながら、頑張って、と言われるような目標は今年もなく、今ある幸せを持続させる、それだけです。

 具体的にはまず仕事を持続。これは今のところできそう。相変わらず人間関係に辟易しているが、まあもうそろそろ落ち着かないとなとも思う。何処に行っても同じ、それを痛いほど身をもって度々思うわけだ。

 あとは昨年、エンゲル係数がバグっていたので、今年はもう少し切り詰めたいと思う。間食の多さや飲み会の頻度、そう言う贅沢をしすぎた気がする。それに、無駄な娯楽費も減らしたい。ガチャガチャとか変な雑貨とか、買うだけで満足してしまった服とかそう言うの。それらの買う買わないの選択を正しい道へ進めれば、自ずと浪費は免れるだろう。

 

 まあ今は幸せだ。幸せを感じるのは久しぶりな気がする。最愛のパートナー、そして大好きな友人、読書と言う昨年からの趣味の発達、このところ生き甲斐が多くて周りに助けられている。それが全て明日を生き抜く力となって私を突き動かす。まあ主にパートナーだろう。まだまだ夢を見れそうだ。

 



 そんなわけで今年の抱負でした。そして、今年の漢字一文字は「助」にします。(そんなの今まで決めたことなかったけど、パートナーに聞かれて考えた)

 理由としてはパートナーの助けに、私が好く、私を好いてくれる友人の助けになりたいと言う思いから考えて見ました。それ以外の人間はどうでもいいです。要するに今までと変わりません。

 

 最愛のパートナー、友達へ。いつもありがとう。私の人生はあなた方の存在がとても大きいです。どうかあなたにとっても、私と言う人間が少しでも助けになってくれていたら幸いです。私の時間は私のために、そしてあなた方のためにあります。あなたに使います。

 こんな私でよければ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。では。