私は、20代後半頃に、ゲーテやH・ヘッセやノヴァーリスらに代表されるロマン派の文学や芸術、ドイツ観念論やオランダが生んだ偉大な哲学者スピノザの思想に深く傾倒したことがある。
ゲーテがスピノザ主義者であったことなどを思い出して、おさらいのつもりで、國分功一郎
「100分de名著、スピノザ、エチカ」(NHK出版)
を手にした。
まるで江戸初期の日本陽明学の祖・中江藤樹や、江戸中期の陽明学者・中根東里(とうり)を彷彿とさせるスピノザの真摯な生き方や隠遁生活ぶりは、私の興味を大いにそそったし、陽明学との親近性にいたく感じりながら、毎日少しづつ読み進めている。
スピノザと言えば、
「神即自然」
という汎神論で知られている。
神は無限であり、それ故、外部がない、というのである。
全ての存在は神の中にあるので、当然、我々人間の内部にも、内在神の存在を認めることになる。
スピノザ的な内在神とは、陽明学の良知を思わせるに十分であろう。
そんな中、興味深い箇所があった。
スピノザ曰く
「光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である」(『エチカ』第2部定理43備考)
と。
「真理が真理自身の基準である」
とは、真理が
「自分は真理である」
と語りかけてくるということであり、真理を獲得すれば、
「あ、これは真理だ」
と分かるというのだ。
どんな物体も、光を当てないと見えてこないが、光は光だけで自らを顕すことができるように、真理もまた、真理の真理性を証し立てるものは、真理の外側に見出すことは不可能で、真理しかないというのである。
ゲーテは、このスピノザの光についての見解をさらに推し進めて、
「光は、自分以外のものを照らすためだけに存在する無私の存在だ」
と語ったが、同じことが「真理」にも当てはまる。
ここまで読み進めて、陽明学で言う心の本体であるところの「良知」が、スピノザやゲーテの言う光や真理とまるで同じであることに気づかされたのだ。
良知があるからこそ、物事の是非善悪が分かるのである。そして、その良知も、真理同様、私欲から解放されたものでなければ機能しない。
スピノザの生涯についても触れたかったのだが、少々疲れたので、今日はこれにて。上記私見に異論がある方は、参考までに是非ご意見を伺いたい。
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