■「コペルニクス的転回」とは
25日(金)である。
昨日は、無事、長男の家庭訪問を終えることが出来た。妻と二人で、延べ一日半ががりで大掃除に努めたのだが、段々散らかってきたので、「近々にやらなければ」と思っていただけに、家庭訪問のおかげで気分すっきりである。
それでも、流石にハードだった。作日の朝は、早起きして掃除に取り掛かったのだが、おかげで睡眠不足になってしまっていた。というわけで、昨夜は9時頃に床に就き、今朝7時頃に目覚めるまで、まさしく爆睡であった。途中でトイレに立つなどして目覚めないのは、珍しいのだ(苦笑)。
前回の続きである。
物の見方・考え方が大きく変わるという体験は、人間として生まれてきた以上、大変貴重な体験のはずなのだが、何故か、多くの人々は、そんなことにはとんと興味が無いらしい(苦笑)。
一般的に、物の見方・考え方が天地がひっくり返るほど大幅に変わることを、
「コペルニクス的転回(Copernican revolution)」
と言うが、やはり、東洋思想でいうところの大悟とは質的に違うものである。
コペルニクスの「地動説」によって、地球は、宇宙の中心であるとするそれまでの「天動説」による世界観が、地球は、太陽の周りをまわっているとする「太陽中心説」に180度変わってしまったことから、この用語ができたようである。
「コペルニクス的転回」という言葉は、もとは、認識論の限界を説いた哲学者・カントの哲学的立場を示す用語だそうだが、現在では、その発想が180度変わることを言う。
カントは、人は、五感を通して主観的に物を見聞することはできるが、物そのものを見ると言おうか、認識することは出来ないと説いたが、R・シュタイナーは、
「そうではない、我々の認識能力を高めさえすれば、高まったその分だけ、物が認識できるのだ」
と説いて、認識には限界があるとするカントの説を論破した。
■「〈そうか〉と気づかして頂いても、限りなくそれを毎日の生活の中で、繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける、それが大事なんでしょうね」
さて、話を戻させて頂いて、青山俊董尼のご法話についてである。
実は、先ほどの認識論のルドルフ・シュタイナーの説に通じる話なのである。
以下は、青山俊董(しゅんどう)・法話
「人生に光あり」
からである。
//////////////////////
金子寿郎「そういうお話を伺っても、『ああ、いい話だった』、はい、それまで、というのじゃ、どうにも役に立たないんですが、そういう場合は、どうすればいいんでしょうか?」
青山俊董「とにかく、幸いに、悲しみ苦しみに出会わせて頂いて、アンテナが立つことで、人に出会える、教えに出会える。しかしながら、そのなるほどと、まず、出会うことってのは頂けますわね。しかしそこで思うんですけれども、自分の持ち合わせの寸法しか頂けない(笑)、んですわね。
そこを道元(どうげん)様は、
〈参学眼力(さんがくがんりき)の 及ぶばかりを 見取会取(けんしゅえしゅ)するなり〉
学んだ目線しかない。学び、眼の及ぶばかりの範囲をしか頂けない。自分のわずかな目線しかない、学びしかない、その範囲しか頂けない。ですから、限りなく、兎に角、例えばひと言、「そうか」と気づかして頂いても、限りなくそれを毎日の生活の中で、繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける、それが大事なんでしょうね。
■「長いこと100回1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事にやり続ける、そうすることによって、熟して、今一度当たることができた」
限りなく日常生活の中で、一句を、温め続けさせて頂く、そうすること、これが道元様は、
〈百不當(ひゃくふとう) 一老(いちろう)〉
※「百不当 一老」も、可。
とおっしゃってますわなあ。
これは、道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「説心説性(せっしんせっしょう)の巻(まき)」ですけれども。
弓矢に例えて、
〈今の一当(いっとう)は、過去の百不当の力なり〉。
弓を的に向かって射(い)た、何回射ても失敗、うまくいかない、百不当、千不当ですわな。今の一当は、今初めて一度当たることができた、今、初めて弓が的に当たることができたのは過去の100回、1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事に努め続けることによって、熟して、今1度、やっと当たることができたぞ、と。
今の一当は、過去百不当の力なり、一当を〈老〉と書いているところに意味がありますよね。日本で〈老〉というのは、老醜(ろうしゅう)、老練、老師、円熟の意味ですわね。
ですから、長いこと100回1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事にやり続ける、そうすることによって、熟して、今一度当たることができた、というような、時間をかけて、教えに参じ続けることで、自分の物差しを伸ばしてく、よりしょうがない。
という、ま、その辺が、教えに出会うことができても、後は時間をかけながら、具体的生活の中であっため続けさせて頂かないといけない、それが今日のお軸にかけました
〈梅熟(ばいじゅく)〉
でもありますね。
続く。
///////////////////
■「その人の器(能力)に応じた物しか、人は見ること、知ることはできない」
「百不当 一老」
実に、いい言葉だ。
私自身、20歳ころから、まさしく牛歩(ぎゅうほ)の歩みであったが、陽明学を含む東洋思想を独学で学び続けてきて、気が付いたら40歳頃に『真説「陽明学」入門』で作家でデビューを果たし、以来20年、陽明学研究家として今日に至っているわけだが、まさしく、青山さんがおっしゃるように
「繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける」
日々であったことだ。
そして、私も、折に触れてお話しさせて頂くのだが、拙著を1~2度読んだり、講演を一度聞いた位で、分かったつもりになられては困るのである。
もちろん、
「では、回数多く読めば、分かるのですか」
と問われれば、
「そうだ」
とも明言し難いのだが、1~2度読んだ人より分かってくるのは事実である。
とにかく、書道であれ語学であれ、あるいは「江戸しぐさ」であれ、
「繰り返し繰り返し」
の根気が大事なのである。
「参学眼力(さんがくがんりき)の 及ぶばかりを 見取会取(けんしゅえしゅ)するなり」
は、もともとは、以下の一文からの引用である。
「かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外(じんちゅうかくがい)、おほく様子(ようす)を帯(たい)せりといへども、参学眼力(さんがくがんりき)のおよぶばかりを、見取会取(けんしゅえしゅ)するなり」(『正法眼蔵』「第一、現 成 公 按(げんじょうこうあん)」)
意味は、
「総てのものごとがそうである。常識の立場にも、仏道の立場にも様々の立場があるが、人はただ、自分の能力の範囲でしか、それを知ることができない」
となる。
道元は、
「その人の器(能力)に応じた物しか、人は見ること、知ることはできない」
と説いており、ほんのちょっとのニュアンスの違いがあるかもしれないが、R・シュタイナーの見解に一致するといっていい。
だからこそ、
「時間をかけて、教えに参じ続けることで、自分の物差しを伸ばしてく」
ことが大事なのだ。
『孟子』「公孫丑(こうそんちゅう)上篇」には、
「助長(じょちょう)」
という言葉についてのエピソードがある。
早く育つようにと、畑の苗の芽を一つひとつ引っ張った農夫の話である。結果、苗は全部枯れてしまったというのだが、それが大根であれ、ミカンであれ、徐々にしか育たないのである。
心を鍛える場合も同じなのだ。
俗っぽい言い方になるが、勝てないまでも、負けない心を育むことは可能である。また、それが出来なければ、この競争社会を生き残ることは難しい。
また、苦難困難を前にして、逃げることなく乗り越えるには、自分を勇気づけるためにも、心のよりどころが必要になる。
私の心のよりどころや物差しは、王陽明の教えである。
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25日(金)である。
昨日は、無事、長男の家庭訪問を終えることが出来た。妻と二人で、延べ一日半ががりで大掃除に努めたのだが、段々散らかってきたので、「近々にやらなければ」と思っていただけに、家庭訪問のおかげで気分すっきりである。
それでも、流石にハードだった。作日の朝は、早起きして掃除に取り掛かったのだが、おかげで睡眠不足になってしまっていた。というわけで、昨夜は9時頃に床に就き、今朝7時頃に目覚めるまで、まさしく爆睡であった。途中でトイレに立つなどして目覚めないのは、珍しいのだ(苦笑)。
前回の続きである。
物の見方・考え方が大きく変わるという体験は、人間として生まれてきた以上、大変貴重な体験のはずなのだが、何故か、多くの人々は、そんなことにはとんと興味が無いらしい(苦笑)。
一般的に、物の見方・考え方が天地がひっくり返るほど大幅に変わることを、
「コペルニクス的転回(Copernican revolution)」
と言うが、やはり、東洋思想でいうところの大悟とは質的に違うものである。
コペルニクスの「地動説」によって、地球は、宇宙の中心であるとするそれまでの「天動説」による世界観が、地球は、太陽の周りをまわっているとする「太陽中心説」に180度変わってしまったことから、この用語ができたようである。
「コペルニクス的転回」という言葉は、もとは、認識論の限界を説いた哲学者・カントの哲学的立場を示す用語だそうだが、現在では、その発想が180度変わることを言う。
カントは、人は、五感を通して主観的に物を見聞することはできるが、物そのものを見ると言おうか、認識することは出来ないと説いたが、R・シュタイナーは、
「そうではない、我々の認識能力を高めさえすれば、高まったその分だけ、物が認識できるのだ」
と説いて、認識には限界があるとするカントの説を論破した。
■「〈そうか〉と気づかして頂いても、限りなくそれを毎日の生活の中で、繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける、それが大事なんでしょうね」
さて、話を戻させて頂いて、青山俊董尼のご法話についてである。
実は、先ほどの認識論のルドルフ・シュタイナーの説に通じる話なのである。
以下は、青山俊董(しゅんどう)・法話
「人生に光あり」
からである。
//////////////////////
金子寿郎「そういうお話を伺っても、『ああ、いい話だった』、はい、それまで、というのじゃ、どうにも役に立たないんですが、そういう場合は、どうすればいいんでしょうか?」
青山俊董「とにかく、幸いに、悲しみ苦しみに出会わせて頂いて、アンテナが立つことで、人に出会える、教えに出会える。しかしながら、そのなるほどと、まず、出会うことってのは頂けますわね。しかしそこで思うんですけれども、自分の持ち合わせの寸法しか頂けない(笑)、んですわね。
そこを道元(どうげん)様は、
〈参学眼力(さんがくがんりき)の 及ぶばかりを 見取会取(けんしゅえしゅ)するなり〉
学んだ目線しかない。学び、眼の及ぶばかりの範囲をしか頂けない。自分のわずかな目線しかない、学びしかない、その範囲しか頂けない。ですから、限りなく、兎に角、例えばひと言、「そうか」と気づかして頂いても、限りなくそれを毎日の生活の中で、繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける、それが大事なんでしょうね。
■「長いこと100回1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事にやり続ける、そうすることによって、熟して、今一度当たることができた」
限りなく日常生活の中で、一句を、温め続けさせて頂く、そうすること、これが道元様は、
〈百不當(ひゃくふとう) 一老(いちろう)〉
※「百不当 一老」も、可。
とおっしゃってますわなあ。
これは、道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「説心説性(せっしんせっしょう)の巻(まき)」ですけれども。
弓矢に例えて、
〈今の一当(いっとう)は、過去の百不当の力なり〉。
弓を的に向かって射(い)た、何回射ても失敗、うまくいかない、百不当、千不当ですわな。今の一当は、今初めて一度当たることができた、今、初めて弓が的に当たることができたのは過去の100回、1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事に努め続けることによって、熟して、今1度、やっと当たることができたぞ、と。
今の一当は、過去百不当の力なり、一当を〈老〉と書いているところに意味がありますよね。日本で〈老〉というのは、老醜(ろうしゅう)、老練、老師、円熟の意味ですわね。
ですから、長いこと100回1000回の失敗にめげずに、1度1度を大事にやり続ける、そうすることによって、熟して、今一度当たることができた、というような、時間をかけて、教えに参じ続けることで、自分の物差しを伸ばしてく、よりしょうがない。
という、ま、その辺が、教えに出会うことができても、後は時間をかけながら、具体的生活の中であっため続けさせて頂かないといけない、それが今日のお軸にかけました
〈梅熟(ばいじゅく)〉
でもありますね。
続く。
///////////////////
■「その人の器(能力)に応じた物しか、人は見ること、知ることはできない」
「百不当 一老」
実に、いい言葉だ。
私自身、20歳ころから、まさしく牛歩(ぎゅうほ)の歩みであったが、陽明学を含む東洋思想を独学で学び続けてきて、気が付いたら40歳頃に『真説「陽明学」入門』で作家でデビューを果たし、以来20年、陽明学研究家として今日に至っているわけだが、まさしく、青山さんがおっしゃるように
「繰り返し繰り返し温めさせて頂く、時間をかけて参求し続ける」
日々であったことだ。
そして、私も、折に触れてお話しさせて頂くのだが、拙著を1~2度読んだり、講演を一度聞いた位で、分かったつもりになられては困るのである。
もちろん、
「では、回数多く読めば、分かるのですか」
と問われれば、
「そうだ」
とも明言し難いのだが、1~2度読んだ人より分かってくるのは事実である。
とにかく、書道であれ語学であれ、あるいは「江戸しぐさ」であれ、
「繰り返し繰り返し」
の根気が大事なのである。
「参学眼力(さんがくがんりき)の 及ぶばかりを 見取会取(けんしゅえしゅ)するなり」
は、もともとは、以下の一文からの引用である。
「かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外(じんちゅうかくがい)、おほく様子(ようす)を帯(たい)せりといへども、参学眼力(さんがくがんりき)のおよぶばかりを、見取会取(けんしゅえしゅ)するなり」(『正法眼蔵』「第一、現 成 公 按(げんじょうこうあん)」)
意味は、
「総てのものごとがそうである。常識の立場にも、仏道の立場にも様々の立場があるが、人はただ、自分の能力の範囲でしか、それを知ることができない」
となる。
道元は、
「その人の器(能力)に応じた物しか、人は見ること、知ることはできない」
と説いており、ほんのちょっとのニュアンスの違いがあるかもしれないが、R・シュタイナーの見解に一致するといっていい。
だからこそ、
「時間をかけて、教えに参じ続けることで、自分の物差しを伸ばしてく」
ことが大事なのだ。
『孟子』「公孫丑(こうそんちゅう)上篇」には、
「助長(じょちょう)」
という言葉についてのエピソードがある。
早く育つようにと、畑の苗の芽を一つひとつ引っ張った農夫の話である。結果、苗は全部枯れてしまったというのだが、それが大根であれ、ミカンであれ、徐々にしか育たないのである。
心を鍛える場合も同じなのだ。
俗っぽい言い方になるが、勝てないまでも、負けない心を育むことは可能である。また、それが出来なければ、この競争社会を生き残ることは難しい。
また、苦難困難を前にして、逃げることなく乗り越えるには、自分を勇気づけるためにも、心のよりどころが必要になる。
私の心のよりどころや物差しは、王陽明の教えである。
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