■畳敷きの部屋も、障子も、この銀閣寺が発祥の地なのだという。さらには、絵画では、水墨画が義政好みだった。

 2011年04月19日のブログ「●足利義政の東山文化(銀閣寺)こそは、日本文化の心!」の続きで、室町幕府八代将軍・足利義政と東山文化と銀閣寺についてである。
 ドナルド・キーン氏は、次のように述べている。

「日本建築の最も典型的な様式である〈書院造り〉は、東山で生まれた。
 この様式に特有な一つの特徴は、円柱ではなくて角柱を使ったことだった。
 今一つの特徴である畳は、昔の絵画を見ても分かるように、すでに平安時代にあった。
 しかし、その頃の畳は一般に部屋の中のところどころに数枚しか敷かれていなかった。東山時代になって初めて、畳が床全体に敷き詰められることになったのだ。
 障子と床(とこ)の間(ま)が生まれたのも、東山時代である。
 絵画の様式も、変わった。
 それ以前の絵画には、一般に色彩があったが、この時期から墨絵が日本人の嗜好を示す典型的な様式となった。たとえば、雪舟(せっしゅう)や雪村(せっそん)の傑作がそれである。
 さらに、日本人は昔から神仏に花を供える習慣があったが、生け花の芸術が知られるようになったのは義政の時代になってからだった。
 そして、義政が建てた銀閣寺の中に今でもある一室で、茶の湯が生まれたかもしれないのだ」(『ドナルド・キーン自伝』「36、〈日本の心〉と足利義政」)
 
 
 私が両親と住んでいた田舎の建物には、確かに床の間があった。その床の間には、父の大小ふた振りの日本刀が飾られ、時には、母が活けた花が飾られたし、壁には掛け軸がかけてあった。

 畳敷きの部屋も、障子も、この銀閣寺が発祥の地なのだという。
 さらには、絵画では、水墨画が義政好みだった。
 私の好きな中国の水墨画の画家・牧谿(もっけい)に注目し、コレクションしたのはこの義政だった。
 和歌と書に優れた才能を発揮した義政は、香道をたしなみ、特に能楽を好み、世阿弥(ぜあみ)の甥の音阿弥(おんあみ)を高く評価した。
 花道も、さらには茶の湯(茶道)も、この銀閣寺から始まったという。
 茶道について、ドナルド・キーン氏は

「義政が親しい仲間と茶を飲み、自ら茶をたてた四畳半の座敷は、当時のみならず後世にいたるまで多くの日本人が見習うべき手本となった。義政は、単なる優雅な気晴らしにすぎなかったものに将軍のお墨付きを与え、儀式化された茶道へと発展させる道を開いたのだった。それが、ついには偉大な千利休の〈侘茶(わびちゃ)〉となって大成した」(『足利義政、日本美の発見』「第九章 茶の湯の誕生」) と述べている。

■「日本史上、義政以上に日本人の美意識の形成に大きな影響を与えた人物はいない」

 四畳半の座敷とは、東求堂(とうぐどう)の茶室
「同仁斎(どうじんさい)」
 のことである。
 この「同仁」という名前は、仏教の用語で、
「阿弥陀仏のもとではすべて人は平等」
 という意味がある。

 そのほかに、銀閣寺で注目すべきは、庭園だ。
 造園に関しては、河原者の庭師・善阿弥(ぜんあみ)と、その後継者の又四郎が手掛けたのではないかとキーン氏は述べている。
 とはいえ、義政が精魂を傾けて作った庭園は、もう現存しない。現在の庭園の池や砂の庭に、当時の面影を見ることができるのでは、とのキーン氏の話である。
 キーン氏によれば、足利義政の類まれな美的センスは、浄土教と禅の両者によって育まれたもののようである。

 ここで結論である。
 キーン氏の言葉を借りれば、
「日本史上、義政以上に日本人の美意識の形成に大きな影響を与えた人物はいない」
「〈日本人のこころ〉だけを探したいのであれば、それを見つけるのに最もふさわしい場所は義政の山荘」 
 つまり
「銀閣寺」
 である、ということになる。
 
 最後に、一言。
 高校や大学受験で、答案に「銀閣寺」と書いたら間違いとされた事実があるそうだ。正しくは「慈照寺(じしょうじ)」あるいは「銀閣」と書かなければならないのだそうである。
 今後、京都に行く機会がおありであれば、 是非、「日本のこころ」を見に、銀閣寺を訪れてもらいたい。


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