また一つ独り言を。
久々に。
今日、入学式がありました。
終わって間もなく暴風雨にも歓迎されましたが。
昔から決まって、こういう行事のときは雨がついてくることが多いようです。
雨男、ってやつなんですかね。
さて、そういうことで僕も無事大学生になったようですが、実感が湧きません。
志望校に行かれなかったからなのか。
真面目に受験をやり切ったという思い出が無いからなのか。
それともまだ自立など出来ないと甘えているからなのか。
…分かりませんが。
受験戦争に参加する、というのは強制的なものではなく、単なる選択肢の一つに過ぎないのだということに最近気が付きました。
つくづく何にも分かってないなあ、と自らを省みることになりました。
今も、何かを分かったためしがあったのかなあ、とは思い続けていますが。
受験を通して何かを考えること。
それは決して無駄ではないし、むしろ一つの効用とも言えます。
ですが、その方法は一通りなのでしょうか?
受験に成功するに越したことはありません。
しかし、それに失敗したからといって、これから先何も分からないということがあるのでしょうか?
受験という名を与えられて、特権的な地位の上に立つ学問を通してしか人間は成功出来ないのでしょうか?
人間一通りではありません。
「成功」の規定の仕方、「幸せ」の尺度の在り方。
それも一通りではないのではありませんか?
それなのに、学問、ひいては学歴が特権的な価値を持っています。
でも、それは世俗的なルールに過ぎません。
僕はそう思っています。
個人が完全な独り身において生存することは出来ません。
よって、「みんな」という「だれか」の価値基準が「わたし」の中に割り込んできます。
ですが、その割り込んできた価値基準を必ずしも「わたし」が受け入れる必要があるのかと考えてみれば、当然ながらケースバイケース、即ち時と場合(またはその内容も含めて)によるのではありませんか?
「だれか」の価値基準がそのまますんなり入ってくるケースの方がむしろ珍しいように思えますし。
元を辿れば、人間与えられたものしかありません。
親が遺伝子を分け合って生まれたのが「わたし」なのですから。
「わたし」はそもそも無かった。
父の一部と母の一部が「わたし」となっただけです。
この世にあった遍くパーツのほんの断片が「わたし」なのです。
自分だけの考え、というものも怪しいものです。
この世にあるパーツの新しいっぽい組み合わせを見つけ、喜び勇んでそう呼んでいるにすぎないのではありませんか?
ともかく、「わたし」の持つ考えというのは外から輸入したものが大半なのです。
その輸入の繰り返しを伝統と呼び、その継承が文化を保っていっている。
…そう、僕には見えます。
話を纏めますと、「わたし」というものは自ら価値基準を作ることは出来ません。
大概にして。しかも20年も生きてすらいないような人がそれを作ることはほぼ不可能なんじゃないかと思われます。
だから、学生という「わたし」は、特権的なアレの持つ意味が分からなくとも、価値があるらしいというその事実を「輸入」せざるを得ない…。
価値の在り処、意味の有り様、それは一通りではないのに…。
…恐らく、非主体的で、することもなく「受験」をさせられ、挙句散々な結果を呼び込んだ自分自身への恨みがこんな形を取って現れてしまったのでしょう。
受験戦争の敗者、その遠吠えでしかありませんよね、こんなの。
何も出来ない空想家の戯言、なんでしょうね。
何処に行くかではなく、何をするのか。
それが重要だと、自分に言い聞かせる日々が続いていますが、どうも負け犬臭い台詞に聞こえてますます自分が好きになれません。
そもそも、何に負けたのか。
…受験戦争。ひいては自身に。
それも、その認識でいいのかなあ?
自分の将来まで自己採点しないでください、と、ある予備校の広告にありました。
それもそうだなあ、と思う一方、予備校本体が実際していることを考えてもみると、
「一体どの口がそれを言うんだろう」
という気分にもなってきてしまいました。
得点こそ、受験生=若者という生身の人間の価値だ、と言わんばかりのその姿勢を全面に押し出すその組織が、そんなことを言っている…。
そう考えると、「オトナ」というものは意地悪ですよね。
学問、という数ある道の一筋がどうして特権的な意味を持っているのか、それを日々考えさせてはくれないのですから。
長々と取りとめもなくだらだらと今回もここまで来てしまいました。
今日の暴風雨に打たれながら考えたということでもありません。
ただ不本意にでも入学を果たしてしまった以上は一つ掃(吐)き出すものは掃(吐)き出しておこうと思ったので。。。
誰がこんなもの見てるのかは定かではありませんが。