「三年前―」
二人並んで砂浜に腰を降ろすなり、俺は口を開いた。
「三年前東京で別れたときからみると、だいぶ変わったよ、お前」
―そうか?
視線を海においたまま、ショウは少し照れ臭そうに笑う。
「前はボサボサの長髪でロッカー気取りだった」
俺はキャメルに火を付けながら横目で相棒を見た。ショウの何が変わったかっていえば、一番は髪型だ。俺たちがバンドを組んでいた頃のこいつのスタイルと言えば、緩やかに癖の着いた黒髪を肩まで垂らし、無精で剃っていないだけの髭が定番だった。そんな日本人離れしたスタイルも、目鼻立ちのはっきりした顔立ちと水泳選手並みに引き締まった長身のお陰でよく似合っていた。
今傍らにいるかつての相棒に昔の面影はなかった。
自慢の長髪はさっぱりと刈り込まれ、髭もきれいに剃られている。尖った高い鼻梁と形のいい顎のラインが以前より強調され、バンド時代には到底見られなかった聡明さが感じられる。体育会系上がりの若手営業マンと名乗ってもいけるかもしれない。
そんな友人のたかが外見の変化に、俺は理由の見当たらない胸がつかえるような感覚を覚えていた。
俺は問いかけた。
「お前、今何してメシ食ってんだ?」
かつての野性味溢れたボーカリストは静かに答えた。「公務員」
マジか。
「今まではコンビニでバイトしながら実家から公務員予備校に通ってた」
なんと言っていいのか分からない俺を尻目に、ショウは故郷の海を見つめながらがら語り続ける。
「そこの通りにセブンイレブンあるだろ。覚えてるよな?中学時代よく学校帰りに買い食いしてたとこ。あそこでバイトしてたのさ。三年間な」
ショウの口調は穏やかながらも、どこかぶっきらぼうに聞こえてくる。
「社員にならないかって話もあったんだぜ」
「やっぱ公務員の方が安定してるからな」
「三回めの試験でやっとこさ受かってよ」
「それでな‥‥あん時は‥‥」
ショウはずっと海の向こうに遠い視線を投げている。
まるで俺ではなく波に語りかけているようだ。
俺は途中から、親友の近況報告を聞くともなしに聞いていた。興味がなかったわけではない。幼少の時から家族のように一緒の時間を過ごしてきた親友の、俺の知らない数年間が、俺の想像とあまりにもかけ離れていたことにただただ呆然としていた。
ショウが、全うな職についてる。しかも公務員。
傍らの友に、昔の面影はなかった。
この世の全てに喧嘩を仕掛けているような目付きでステージを駆け回っていた姿は想像できなかった。
狂熱のライブの後毎晩懲りずにバンド仲間やグルーピー連中とパーティーに興じていた姿は想像できなかった。
ライブのどエンディングで客のノリが気に食わないからと百人の観客相手に唾を飛ばして啖呵を切っていた無法者の姿は想像できなかった。
今傍らにいるのは、紛れもなく、俺の幼馴染みにして親友のショウ。
だが、俺の記憶の中のショウとは明らかに違う臭いを纏った、まるで別人と相対している感覚に俺は言い様のない違和感を覚えている。
この三年間、ショウに何があった?まるで―
「『丸くなった』。お前、俺のこと、そう思ってるだろ」
突然ショウは言った。
途中から上の空で聞いていたから、ヤツの話の内容は殆ど耳をすり抜けていたが、自嘲めいた口調は今までのものとは明らかに異なっていた。
遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえる。ぱしゃぱしゃと波打ち際で跳ね回る音。そんなに遠くへ行っちゃダメよ、と子供を諌める、たぶん母親の声。
ショウは海の向こうに投げていた遠い目を少しくずらし幸せそうな風景に薄い笑みを浮かべた。
「―ケイ。俺はボーカリストとして売れなくて良かったと思ってる」
「‥‥え?」
泣き声が聞こえた。子供が転んだらしい。慌てて我が子を慰める母の声が、子供の鳴き声に被さる。
「成長できたから」
ショウはそう言って波打ち際の親子から視線を逸らした。
「ロンドンに発つ前に、どうしても行っておきたいところがあるんです」
そう切り出すと、社長は写真週刊紙を両掌でバタンと閉じてデスクに放り投げた。その手をラークの箱に伸ばしながら、サングラス越しに俺をねめつける。―で、どこよ?と促している。
なるべく自然に答えてみた。
「北海道です」
「蟹の季節にはまだ早いんじゃねえの」
彼は皮肉っぽくそう言って、くわえたものに火をつけた。溜め息と共に吹き出された紫煙が窓から入り込む微かな西日の中で踊る。既にデスクの上の灰皿には踊り終えた吸い殻がアステカの古代遺跡のように積み上がっていた。
「なんでまた、このクソ忙しい時期に」
ドスの効いたバリトンボイスはいつものことだが、今日の社長はいつにもまして機嫌が悪そうだと察した。
俺は適当な言葉が見つからず、間を稼ぐのに自分のキャメルに火を付けようとしたが、ジッポのオイルが切れていた。よう、と声がしたとたんに社長のジッポが飛んできた。ずっしりと重量のあるそれを受け取る代わりに、俺は皮肉を投げ返す。
「遠洋漁業に出て一山当てるつもりはありませんから安心してくださいよ」
機嫌の悪い上司にこの言いぐさとは、我ながらひねくれた部下だと思う。
「だろうよ。漁師の息子のクセに貧弱だからな、お前は」
部下も部下ならなんとやら、か。悔しいかな、仰せの通り。俺は曖昧に苦笑しておいた。
「―ったくよ。ロンドンだの北海道だのわがままばっか言いやがって。このハイエナがたかってクソ忙しいときによ」
彼はぶつぶつ言いながら立ち上がり窓際に寄った。ふん、と鼻を鳴らして彼が窓を開けた瞬間だ。
「やっぱりいたぞ!」
「竹内社長!」
何人かが声を上げると共に、一斉にカメラのフラッシュがたかれる音が二階のここ、社長室に飛び込んできた。今日はまた何社から何人来やがったんだ?ジャーナリスト気取りのハイエナどもが‥‥。
何十人といるであろうハイエナ達の上げる浅ましい奇声、無機質なシャッター音。それら全てが俺を鬱にさせた。
社長は眼下の惨状に毒づくでもなく、仁王立ちしたままハイエナの群れを見下ろしている。
彼は今何を思っているのだろうか。自分の部下が、世間から好奇の目で見られていると言うことについて。そんな部下を持ったがために、大衆の目を名乗ったハイエナたちがだらだらと垂らしまくる見当違いの使命感のエサにされていることについて。
幾重にも重なるシャッター音に混じって女性の甲高い声が響いている。
「社長は今取り込み中ですのでお引き取りください!」悲鳴にも似た絶叫の主は、この会社のただ一人の従業員であり、俺のマネージャー兼社長秘書の美咲さんのものだ。
「お引き取りを!KEIも今ここにはおりませんので!」

そんな方便が空しく響く。俺―『Loving Dead』のギタリストが今ここにいることなど、あちらは先刻ご承知なのだろう。俺は一週間ほど前からアパートの自室に帰っていない。というか、半ば追い出される形でこのオフィスに転がり込んでいる。理由は言わずもがな、連日のこのマスコミ攻勢である。業界でもが交遊関係が狭いことで有名だった俺だ。自宅にいないとなればここぐらいしか俺の居所を知る術はないとやつらは踏んだのだ。シャクだがビンゴだよ。おめでとう。
美咲さんの絶叫など無視して、ハイエナどもは彫像のように動かない社長の姿をファインダーに納め続ける。そんなに同じ写真ばかり撮って何か意味があるのか?とどうでもいいことが次々と頭に飛来しては無数のシャッター音に掻き消されていった。
下衆な連中にもみくちゃにされながら、美咲さんは今何を思っているのだろう。後悔しているだろうか。業界大手のヘッドハンティングを蹴って俺と社長についてきた彼女。その結果が、コレだ。
俺はすっかり根元まで灰になったキャメルを灰皿に押し付けた。残り火が人差し指の先を刺し、俺は顔をしかめた。
やつらは俺を狙ってる。
やつらの餌はこの俺だ。
やつらがしゃぶり尽くしたいのは俺の骨なんだ。
俺のせいでこんなことになったのに。
社長や美咲さんにはなんの関係もないのに。
俺が、俺こそがすべての‥‥
「きゃあっ」
不意に美咲さんの悲鳴が谺した。やつらに突き飛ばされでもしたのか!?
そう思うが早いか、俺は反射的に階下に繋がるドアに駆け出していたが―
違った。社長が、火が着いたままの煙草をハイエナの群れに放ったのだ。それはきっと美咲さんの方へと舞ったのだろう。ざわめきと共に群れの乱れる気配がした。当の社長は「あらら」と感情のこもらぬ声で呟くと、勢いよく窓を閉めた。そして僕の方に向き直り、さも大儀そうにサングラスを外した。
「猫の手も借りてぇな」
久方ぶりに見た彼の素顔―その目元には疲労の色がくっきりと浮かんでいた。
俺は何も言えなかった。
「分かってるよ。猫には足が四本、手はねぇってんだろ?」
彼は自分で言った軽口にクッと喉元で笑った。と思うと、スッと真顔になる。
「神谷」
「‥‥はい」
「お前、ふるさとは網走だったな」
俺が黙って頷くと、社長は薄く微笑んだ。
「いいところだ」
やはりこの人には、俺の突然のわがままも見透かされていたのだ。
「ロンドンへの旅は二週間後。着いたらすぐレコーディングの準備に入る。向こうの連中を待たせるなよ」
そう言って彼はサングラスをかけ直した。カツカツと靴を鳴らしてドアに向かう。その足取りは既にいつもの社長のものだった。
まるで虎だ。
俺の胸に大変な申し訳なさと―それ以上の安心感が広がった。
「‥‥俺はやっぱり、まだしばらく社長の世話になるみたいです」
声に出していた。出さずにいられなかった。
社長の、ドアノブにかけたゴツい手が制止した。
しかし、何も言わずに、虎は出ていった。
網走から一本だけ通っているバスを降りると、停留所の裏手から懐かしい音が聞こえてきた。その瞬間、俺はえもいわれぬ感覚にとらわれた。
波の音。
年季の入った赤いバスが無粋な排気ガスを撒き散らして遠ざかっていくのを待って、俺は深呼吸してみた。
潮の匂い。
俺は駆け出していた。小さな石段を二段飛びで登る。右肩に担いだギターケースが邪魔だな、なんて思いながら。ボストンバッグは置き去りだ。構うもんか。
眼下に広がる砂浜。
砂の灰色と夕日の赤色の間で雄大な呼吸を繰り返す、蒼い海。
鼓動が高まる。
俺は帰ってきた。
ふるさとに。

波打ち際に一人の男が立っていた。
履き古したようなボロいジーンズの裾を膝下まで捲り、裸足で寄せる波を蹴っているその後ろ姿は、子供が拗ねているようにも波をおちょくっているようにも見える。
俺は男の後ろ姿を上から下まで観察しながら、そうっと近づいていった。すぐに声をかけるのを躊躇ったのは、その後ろ姿が記憶の中の後ろ姿となかなか重ならなかったから。
男はふと波をおちょくる足を止めた。両手をジーパンに突っ込んだまま、ゆっくりとこちらを振り返る。
なぜか俺は身構えた。
警戒したわけではない。
俺は足を止めていた。
十メートルぐらいの距離を置いて俺達は見つめあった。
男はまるでタイマンでもおっ始めそうな目付きで俺の目を見返してくる。
波の音と、遠くから聞こえてくる子供のはしゃぐ声が無邪気に俺たちの沈黙の間で戯れている。
「―しばらく」
口を開いたのは俺だ。
男はすっと目を伏せた。そして照れたような笑みを浮かべると、脱ぎ捨てられたサンダルを拾ってこちらに歩み寄ってきた。
俺はハイタッチを求めるように右手を顔の高さまで掲げた。
パシン。
互いの顔の横で手と手が重なった瞬間―
「三年ぶり」
男は―ショウは呟いた。
俺達は再会した。