自由が丘の片隅にある、狭い階段を降りると、そこに、小さなジャズバーがあった。
もう、随分前に無くなってしまったけれど。
それほど広くないお店の真ん中に、グランドピアノが一台。
ピアノの形にピッタリ沿うように、木のカウンターが作りつけてあった。
日替わりでミュージシャンたちが演奏をしていた。
曲は全て彼らのオリジナルのジャズ曲。ここにしかないものを届けたいとのマスターの拘りだという。
トリオだったり、ピアノだけだったり、聴いたことは無かったけれど、ブルースハープをたくさんあるポケットに入れて演奏するミュージシャンもいたようだ。
私は、ピアノがメインの、あるトリオの日が好きだった。
ピアノにウッドベースとパーカッションの編成だった。
カウンターに座ると、ピアノの音がそのまま体に伝わってきて、ピアノの一部になって、音に包まることができた。
だから、空いていれば必ずカウンター席に座った。
元々は職場の同僚に教えてもらって知り、ほとんどは一人で行った。元気なときよりも、落ち込んだり淋しかったりしたときが多かった。つき合っていた彼氏にも、誰にも教えなかった。
そういう場所だった。
たまたま田舎から出てきていた母と行った以外は、キャッチで声をかけてきたお姉さんを連れて行ったことがある。行くけど来るかと聞いたらついてきた気がする。やはり後悔したんだった。
演奏の無い日やステージの間は、マスターが好きな、ECMレコードというレーベルの曲を店内にかけていた。
ジャズなんて今でもよく分かっていないけれど、今よりもっと何も知らなかった。
マスターにちょっと質問すると、たくさん教えてくれた。
お酒もお料理も美味しかった。
薄暗い店内に満ちる音符にもアルコールが染みていて、様にならない背伸びもそこでなら許してもらえた気がする。
通いつめるほど多く訪れた訳ではないけれど、久しぶりに通りがかって、閉店しているのを見つけて、すごくショックだったんだ。
何故、急に思い出したのか。
最近、手元に小さなシンギングボウルがやって来た。
全然上手く鳴らせないのでそのままにしていたのだけれど、さっき鳴らしてみたら、突然鳴るようになった。
手のひらにボウルを乗せて、長く響くその音を感じていたら、あの店のピアノの振動がふいに体の奥から蘇ってきたのだ。
夢のように遠い昔の記憶。
あの空間を思い出すだけで、体にピアノの音が響いてくる気がする。
響きは今も続いている。
今宵はこのまま、夢の中まで連れて行く。