中山元(2005)によると、古代から近代まで、西洋では心身二元論が主流となっていた。心身二元論とは、精神と身体が対立関係にある、という考えである。ここから、身体というのは、思考する精神と共通性を持たないとデカルトは主張した。そしてその観念に従って医学は成り立っている、と中山は述べている。例えば内臓移植は、身体と精神に相互性がないという考えから、自身の内臓が除かれようが他人の内臓を所有しようが個人の精神、魂は変わらないという暗黙の了解をもとに行われている。つまり、身体と精神は別物だという考えのもとで西洋の技術は進歩していった。ただ、現代ではこの理論は揺らぎつつあると私は考える。20世紀にロボトミー手術が問題になったように、身体の一部である脳は精神とつながっている、というのが今日の一般論であると思う。
さて、ニーチェはこの心身二元論を批判した。中山によると、精神は合理的なものであり、それに比べて身体は動物的で劣等である、という考えが間違っているとニーチェは主張したのだ。ニーチェによると、人間自身が合理性や効率性とは異なる基準のもとで、みずからの欲望のもとに生きている。例えば、ゲーム売り場で面白そうなゲームを見つけたとき、頭ではゲームで遊ぶことは非生産的だと理解しているが、遊びたいという欲望に負けて買って帰ってしまった経験は誰にでもあるはずだ。もっと究極的な話をすれば、私たちは理性によって人間を食べることは異常だとわかっている。だが、遭難や飢饉などの生死にかかわる状況下では、生きたい、という本能と強烈な食欲から人食行為におよぶ、という話をよく聞く。身体が有用性とは別のところで、我々は幸福感を感じなければならない、生きなければならないという一種の理性をもち、重要な判断をしているということだと私は考える。
また、メルロ=ポンティは、精神と身体の関係性について間身体性という言葉を用いた。私たちの身体は、他者を模倣し、他者に自分の感情を伝え、他者と交流する社会的な存在である、とメルロ=ポンティは主張する。私たちは生まれてから大人になるまで、周囲の人の真似をして学習する。他人の鉛筆や箸の持ち方などを真似ていくことで初めて、我々は社会生活を送ることが可能になるのだ。また、身体があることで、感情が相手に伝わりやすくなる。例えば、文面上でのやり取りで誤解が生まれた経験は誰にでもあると思う。「きもっ」と言われたとき、それが冗談なのか本気なのかは相手の表情や声色なしでは判別できない。身体の存在によって、我々は伝えたいことを伝えられ、他者との円滑なやり取りが可能になるのだ。つまり、身体は精神と共に人間の営みにおいて重要なはたらきをするものなのだと私は考える。