戦時中という言葉が通じる人がどれだけ居るのか?

と思うのだが、先日の犬局スペシャル「1億総特攻」でも

サイパン島での住民の自死を米兵が理解出来ないという話をしていた。

サイパンに限らず、日本人は本土決戦では竹槍で戦うつもりだったのだから

狂気としか言いようが無い。

明治の初期は極めて平衡感覚を持っていたのだが、

戦いに明け暮れ、富国強兵の世界に染まった日本人はいつしか精神論ばかりとなった。

 

黒船来航の時は幕府も諸藩も圧倒的な軍事力の差を直ぐに認識した。

勿論その段階でも攘夷を叫ぶ輩は多く、精神力で戦う派は居た。

守旧派?開国反対?で暗殺、治安維持の新選組などがそうだろう。

 

しかし、黒船側も日本人を恐れていた。

戦えば長州藩の砲台を占領するなど簡単だった。

しかし、占領を維持して、街中を歩くのは危険過ぎた。

すれ違い様に斬られる危険性があって、とても植民地には向かない国なのだ。

経済・貿易で利益を奪う方法が正しいと判断するのは当然だ。

 

では、日露戦争に勝った?と浮かれた日本人が

その様な冷静さを失った理由はなんだったのか?

開国の時代の圧倒的な軍事・経済力差が埋まったと過信する事から始まったのだろう。

東郷や乃木が祭り上げられ、兵器や科学・技術が疎んじられ、

日本的?精神力がやたらにもてはやされた。

合理性よりも目的、あらねばならぬ論が上位になった。

それが次第に蔓延って、全てが軍事優先の時代になった。

 

特攻という西欧的価値観には存在しない考え方は何処から来るのか?

血塗られた西洋史の基準でも触れたが、日本は島国なのだ。

同じ価値観、統一された行動は水田という水路を共同で利用する農耕の影響が

指摘されている。

飢饉で飢え死にするのも一緒であり、災害に遭って死ぬのも致し方ない。

それは不運・運命であって、そこから自分だけが生き残るという考え方にはならない。

整然と順番を待ち、与えれる支援物資を分けられる国民性なのだ。

 

この秩序、この安定と配慮に満ちた国民性は勿体ないという仏教精神も持っていた。

資源を無駄なく、とことん再利用し尽くす、環境の循環社会を作っていたのが

江戸時代の日本だった。

開国でこれを壊したのだが、今求められているのはこの価値観の復活だ。

何しろ、人間活動が大きくなり過ぎた。

有象無象の庶民までが空を飛び外国を訪問し、観光公害を巻き起こしているのだ。

圧倒的に便利になり、移動や活動の範囲が広がり、

人間どもの好奇心を満足させる事が可能になったのだ。

 

この膨大な活動をGDPだと言ったり、経済成長だと喜ぶのだが、地球は1つしかない。

既に環境は巨大な人口となった人間どもの活動に耐えられない。

地球そのものが島国になったと思えば理解し易い。

同時に島国的発想の必要性という説明が重要だろう。

資本主義で何処かに搾取する対象があって、利益を貪れる時代は終わったのだ。

格差で貧しいと思えば国を捨てる時代なのだ。

権力が支配して息苦しいと逃げ出すのも自由だ。

難民だと称して、受け入れを求めれば、人権が優先されねばならない。

 

此処で問題を整理しなければならないだろう。

地球人どもは集団自殺、鼠族の様に死へ向かって突進中なのだ。

これを止める必要があるのだが、止められるのか?だ。

経済の論理、拡大と発展という価値観、この自律的運動体を止める?

そんな事が出来るのか?という問題なのだ。

 

小生の思考の現段階では、それは可能だとしたら、再分配の方法にある。

生活・存在・生存という前提が企業からの給料というルートからしか得られない。

これが繰り返し、利益を追求せざるを得ない企業活動の源泉だ。

企業という組織が営利を追求し、其処で得た利益を配分しているのだが、

このルート以外の再分配の方法を作って、

人々の生活を成り立たせる方法を確立する事だ。

企業という存在、組織という自己防衛集団の論理に対して、

人間存在の倫理という別の定義を出すべきだろう。

 

江戸期の日本は何処へ行くのも徒歩だった。

馬や籠という乗り物?はあったが、宿場は各駅停車に近く、

地域や産業、雇用が配分されていた。

伊勢講や膝栗毛での旅なども選ばれた人が行くもので、

過剰なる便利さや、自由が地球を破壊していると認識すべき段階なのだ。

浮かれる大陸民どもに警告を発する島国民の発想を押し付けねばなるまいぞ!