巨人(23)tightrope ③ Emperor(プロローグ) | まつすぐな道でさみしい (改)

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ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

いっとくけど、超格闘技プロレスjujoの応援blogじゃないからな!

大相撲協会非公認応援blog

1885年 正力松太郎 誕生 (富山県射水郡)
1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)
1914年 山口利夫 誕生(静岡県三島市)
1917年 
、、、, .木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
2月.10月 ロシア革命
1918年  
..8月13日 正力米騒動鎮圧
11月11日 第一次世界大戦終結
1919 朝鮮・日本の植民地反対運勃発
1922年 
、、、...大山倍達(崔 永宜) 誕生(朝鮮全羅北道)
7月15日 日本共産党結成

1923年
....9月1日 関東大震災
12月27日 虎ノ門事件
1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮咸鏡南道)
1926年 遠藤幸吉 誕生(山口県東村山郡)
1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)
1939年 第二次世界大戦開戦
1940年
2 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門
6月20日 第3回 紀元二千六百年奉祝
、、、、、、天覧武道大会 木村政彦優勝
1945年 第二次世界大戦終結
1947年 正力 巣鴨プリズンより釈放
1948 正力 テレビ放送事業開業に向け
、、、、裏工作を始める
1949年 全日本選手 木村政彦優勝
1950年
3月2日 プロ柔道国際柔道協会発足
6月25日 朝鮮戦争開戦
911日 力道山 大相撲廃業
1951年
1月27日 木村政彦 山口利夫渡米(ハワイ
4月22日 木村政彦 山口利夫
、、、、、プロレスデビューハワイ
7月25日 木村政彦 山口利夫渡伯
7月31日 日本テレビ テレビ放送免許取得
9月30日朝鮮戦争在日国連軍慰問
、、、、 プロレス大会」第1回大会開催
10月23日 マラカランの屈辱(木村vs.エリオ)
10月28日 第4回大会力道山 遠藤幸吉
、、、、、、、プロレスデビュー(日本)
11月14日 NHK テレビ放送免許取得

1952年 
1月20日 木村政彦 山口利夫 渡米(ハワイ
2月3日 力道山 渡米(ハワイ
2月27日 木村政彦 山口利夫 米本土上陸
、、ロサンゼルス~サンフランシスコ
3月29日 大山倍達 遠藤幸吉 渡米
、、、、。(ハワイ経由~ロサンゼルス)
6月10日 力道山 米本上陸
、、、、、、、、、(サンフランシスコ)
1953年 
..21 NHKテレビ放送開始
..3月6日 力道山帰国
7月18日 山口利夫 国内初プロレス興行開催
7月30日 日本プロ・レスリング協会発足
7月27日 朝鮮戦争休戦
828 日本テレビ放送開始..
12月8日 山口利夫 第2回プロレス興

1954年
130日 全日本プロレス協会発足  
26.7 全日本プロレス旗揚げ記念興行
、、、、日本対在日米軍対抗プロレス』
2月19 日本プロレス旗揚げ興行
19~21日蔵前3連戦~全国ツアー計14連戦
4月 目白の野天にて大山道場の看板を出す
5月10日 国際プロレス団設立

1955~59年 馬場正平 巨人軍入団

1959年
4月10日 皇太子御成婚パレード
6月25日 プロ野球天覧試合




「それまでのプロ野球は人気があるとはいえ、まだマイナーなスポーツだったんです。選手の社会的プレステージも低かった。それがあの天覧試合1つで、一気にメジャーなスポーツになった。ええ、ええ、ナショナルなスポーツになったんです」

「僕にとっては完全に雲の上の人です。直接お目にかかる機会も何度かありましたが、そりゃあ緊張の連続でした。読売新聞をメジャーにし、民放テレビの草分けとなられた。プロ野球を日本に持ち込んだのも正力先生だったし、原発をわが国導入したのも正力先生だった。大正力と呼ばれたように、絶対的、神様的な存在でした」
(読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄)



大正力
国民的スーパースター長嶋茂雄をもって雲の上の人、絶対的神様的な存在だったとまで言わしめるメディア王・大正力とは、いったいどんな人物だったのであろうか。

読売グループの天皇? 

いや、その言葉を使うのは不敬行為ともいわれかねない程に読売グループとは正力の独裁経営であり、暴君として君臨してした。


巨怪伝の佐野眞一氏が取材した読売OBの共通点をこのように語っている。

正力の部下たちは、正力の頭に閃いたとっぴなアイデアを実現するために、文字通り奴隷のように奔走されられた。それでいて彼らは、そのことを必ずしも嫌いきっていたわけではかった。

最初、正力のことは口にするのも忌まわしい。あの人に叱られたことで理に叶っていたことはひとつもなかった。と言っていた元部下が、記憶を甦らせるに従ってその口調に熱がこもりはじめ、最後にはあの “大正力” と一緒に仕事をやり遂げることが出来たことに今は誇りを感じると、酔ったように顔を上気されて言いはじめる。

そしてある読売OBによれば、正力が自分の意に沿わない人間も能力主義で重用し続けたのに対し、腹心だけで組織を固めてしまった渡邉恒雄は、正力と比べればまるで小物で「形骸化された正力」でしかないと切り捨てる。

面白いのはこの正力松太郎という人物、ただ冷酷な独裁者という訳ではなく意外と人情深い一面も見せる点だ。


1885(明治18)年 富山に生まれた正力松太郎は金沢の四高に入り柔道部で鳴らした後東京帝大に進学、明治末年に内閣統計局、大正になって警視庁へとキャリアを進めるのだが、そこには同郷で四高・東大の先輩、野口淳吉が警察部長として待っており大変可愛がられたという。

ところがこの野口部長、1919(大正8)年 朝鮮総督府警務局長に任命され、朝鮮に向かう道中チフスに掛かり急死してしまう。

野口は朝鮮に渡るため、身重の妻と4人の子供を残し単身汽車で下関を目指していたのだが、その車中で発病してしまい実兄の住む兵庫県西宮市で途中下車し療養に入るものの、あえなくその地で40年の生涯に幕を閉じた。

このとき野口発病の一報受けた正力はすぐに麹町にある官舎に向かい、身重の妻に代り小学生の長男務ら4人の子供の手を引き野口が病に伏す西宮に駆けつける。最期に子どもたちの顔を見た野口は、まるで子供たちの到着を待っていたかのように発病から8日目の9月8日 に息を引き取る。

季節柄、野口の遺体は西宮で荼毘に付されたが、4人の子供と野口の遺骨を連れ東京に帰った正力は葬儀の一切を取り仕切りる傍ら、残された家族が生活に困らないようにと、警視庁中を駆けまわり1万円もの香典を集め遺族に渡している。

当時は1500円あれば立派な一軒家を買えるといわれた時代だ。


ここまで見ていると、散々社長のことを最低の人間だと罵っていた社員がふと、『でも、うちの社長あんなだからみんなからから嫌われてるけど、アレで意外と良い所もあるんだよなんてつぶやく、昭和期のテレビドラマのような光景が頭に浮かぶのだが、この昭和という時代は政治家にしろ経営者にしろ、独裁者のようなひとりのカリスマの下に多くの才能が集い、大きな塊となって時代を牽引していたのではないだろうか?


あの、もう一人の暴君のように …


彼の場合、それに本格的な暴力が加わるのだが、G馬場やA猪木も読売グループのOBたち同様、その人間性を全否定し、心の中に黒い殺意を抱きながらも、力道山のことを完全には嫌い切ってはいなかったので無いだろうか。


こうして並べてみると、正力と力道山の間には実に共通点が多いことが分かる。

正力の死後日本テレビは11億円(現在の紙幣価値で約66億円)の粉飾決算が発覚するのだが、晩年の正力は正力の妾狂いと揶揄されるほど、読売新聞や日本テレビの本業で稼いだ金をよみうりカントリークラブやよみうりランド、正力タワーの建設計画(これは正力の死と共に即中止)に注ぎ込んでいた。

この辺も前出のリキアパートをはじめ、リキパレス(いやこれはプロレス会場だが)、スーパー、マンション、ゴルフ場建設(これも力道山の死と共に即中止)と、プロレスで儲けた金を湯水のように副業に注ぎ込み、日本プロレスの経営を破綻させていた力道山とそっくりなのだ


しかし、当然似た者同士でソリが合わなかったなどというオチを付けるつもりは無い。


前回、彼のプロフィールを見て違和感を抱いた方も多いと思うが、 この男の人生は民衆の願望を抑圧しようとする警視庁官僚時代と、退官後の読売新聞を買収、社長就任後ではまるで同じ人物とは思えないほど、まったく真逆の方向に舵を切っている。


力道山と正力松太郎の確執を探るためには簡単に正力の経歴を振り返ることが必要になる。


最初に断っておくが、ここから先はプロレスとは関係のない話が続くので、興味のある方は暫しお付き合い願いたい。




























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