巨人(22)tightrope ② 巨怪伝 | まつすぐな道でさみしい (改)

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ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

いっとくけど、超格闘技プロレスjujoの応援blogじゃないからな!

大相撲協会非公認応援blog

1885年 正力松太郎誕生 (富山県射水郡)
1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)
1914年 山口利夫 誕生(静岡県三島市)

1917年 
、、、, .木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
2月.10月 ロシア革命

1918年  第一次世界大戦終結
1919 朝鮮・日本の植民地反対運勃発

1922年 
、、、...大山倍達(崔 永宜) 誕生(朝鮮全羅北道)
7月15日 日本共産党結成

1923年
....9月1日 関東大震災
12月27日 虎ノ門事件

1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮咸鏡南道)
1926年 遠藤幸吉 誕生(山口県東村山郡)
1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)
1939年 第二次世界大戦開戦

1940年
2 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門
6月20日 第3回 紀元二千六百年奉祝
、、、、、、天覧武道大会 木村政彦優勝

1945年 第二次世界大戦終結
1947年 正力 巣鴨プリズンより釈放
1948 正力 テレビ放送事業開業に向け
、、、、裏工作を始める
1949年 全日本選手 木村政彦優勝

1950年
3月2日 プロ柔道国際柔道協会発足
6月25日 朝鮮戦争開戦
911日 力道山 大相撲廃業

1951年
1月27日 木村政彦 山口利夫渡米(ハワイ
4月22日 木村政彦 山口利夫
、、、、、プロレスデビューハワイ
7月25日 木村政彦 山口利夫渡伯
7月31日 日本テレビ テレビ放送免許取得
9月30日朝鮮戦争在日国連軍慰問
、、、、 プロレス大会」第1回大会開催
10月23日 マラカランの屈辱(木村vs.エリオ)
10月28日 第4回大会力道山 遠藤幸吉
、、、、、、、プロレスデビュー(日本)
11月14日 NHK テレビ放送免許取得

1952年 
1月20日 木村政彦 山口利夫 渡米(ハワイ
2月3日 力道山 渡米(ハワイ
2月27日 木村政彦 山口利夫 米本土上陸
、、ロサンゼルス~サンフランシスコ
3月29日 大山倍達 遠藤幸吉 渡米
、、、、。(ハワイ経由~ロサンゼルス)
6月10日 力道山 米本上陸
、、、、、、、、、(サンフランシスコ)
1953年 
..21 NHKテレビ放送開始
..3月6日 力道山帰国
7月18日 山口利夫 国内初プロレス興行開催
7月30日 日本プロ・レスリング協会発足
7月27日 朝鮮戦争休戦
828 日本テレビ放送開始..
12月8日 山口利夫 第2回プロレス興

1954年
130日 全日本プロレス協会発足  
26.7 全日本プロレス旗揚げ記念興行
、、、、日本対在日米軍対抗プロレス』
2月19 日本プロレス旗揚げ興行
19~21日蔵前3連戦~全国ツアー計14連戦
4月 目白の野天にて大山道場の看板を出す
5月10日 国際プロレス団設立

1955~59年 馬場正平 巨人軍入団








思想の達人”たちに聞く
日本の名誉と恥、右と左、ときどき脳天気

田原 日本人というのはね、前の戦争で負けて、恥を認めないで生きることが出来なかったんだと思うんです。敗戦国ですから、戦争をやった日本人の指導者たちも、みんな戦争犯罪人として裁判にかけられて、処刑されたわけですからね。そういうなかで、「恥は認めたくない!」と言い続けてるのが鈴木さんみたいな人ですよ。

ー でも、先ほどもお話したように、田原さんも鈴木さんとは違った立場で、ずっと闘い続けてらっしゃる。

田原   闘ってるという感じはないんだけど、やっば生きるためには闘わざる得ないんでしょうね。が小学5年生のときに日本が敗戦になって、そこから世の中が、どんどん変わっていったわけですよ。だから、「違うんじゃないか?」と言わざる得なかったんです。

鈴木  同じ先生が1学期には「おまえたちは天皇陛下のために死ね!」と言ってたのに、敗戦して2学期になると突然、「日本は民主主義だ!」と。

田原 「戦争に反対しろ!」と。

鈴木  それで大人は信用できないと思ったわけですね。

田原  それだけじゃないです。高校に入ったら朝鮮戦争が始まったんだけど、小学校5年、6年から中学のときに「おまえら、戦争が始まりそうになったら体を張って闘え! 『戦争反対』と言え!」って言われてたから、「朝鮮戦争に反対!」って言ったら、今度は「おまえは共産党か!?」と。また言うことが変わってた。

鈴木  ほ~、なるほど。

田原  それまで共産党は占領軍のことを「解放軍」と言ってて、とても仲が良かった。徳田球一もGHQとすごく仲良かった。ところが朝鮮戦争が始まって共産党がパージされはじめたら、世の中の空気がガラッと変わったんですよ。なんの躊躇もなく変わった。

急に共産党が悪者になってしまった。

田原  そう。あの戦争に最後まで反対してたのは、共産党ですよ。だからその頃、僕は共産党が1番信用できると思ってましたし、共産主義のソ連が世界で1番素晴らしい国だと思ってました、本当に。ところが、1965年に実際にソ連に行ってみたら、全然違ったわけてす。ソ連国内では、言論、表現の自由がまったくなかった。特に政治問題に関しては。それで共産主義、社会主義にガックリして、絶望的になったんですね。でも僕はね、日本に帰ってきてからそのことを怖くて言えなかったんですよ。当時、日本のマスコミは全部左翼でしたから。そんなこと、とても大きな声では言えなかった。

鈴木  でも、当時のマスコミって、中国とかソ連の現状みたいなものを知らなかったんですか?

田原  いや、知ってても知らなくても、とにかく社会主義がいいと思ってた。わりと左翼ってそういうところがあるんですよ。

鈴木  あ~、そうですね。

田原  少なくとも60年安保から70年安保あたりまでは、学生たちはみんな学生運動やってましたね。日本を社会主義の国にしようとしてたんてすよね。だから鈴木さんは、それに反対してたわけでしょ?

鈴木  そうですね。

田原   鈴木さんの大学のときって、何年くらいですか?

鈴木  1965年ぐらいじゃないですかね。

田原  まさにその頃ですよ。朝日新聞だって毎日新聞だって、全部左翼でしたから。

大武道 vol.1   恥”を知る~現代にとって恥とはか!?~


イデオロギー
これは朝まで生テレビでおなじみのジャーナリスト田原総一朗と、昨年脱右翼宣言をした一水会の創設者鈴木邦男の対談を一部抜粋した物だが、小学5年生で敗戦を経験したという田原氏の話からも分かるように、木村政彦や力道山の活躍した日本プロレス設立の時期とは敗戦の影響もあり、学校教育の場でさえ様々な価値観、善悪の判断基準までもが、その時々の情勢によってなんの躊躇もなくコロコロと変わるという、実に奇妙な時代であり、ちょうど現在のアメリカの大統領候補指名レースで、イスラム教徒の入国禁止などと頭のいかれたような発言で物議を醸す不動産王・共和党のドナルド・トランプ氏や、自称「社会民主主義者」民主党のバーニー・サンダース氏のような、両極端なアウトサイダー候補者が人気を集め話題になっていたが、この頃の日本も右翼と左翼、かつての新日vs.UWF抗争を思わせるイデオロギー闘争の時代でもあった。





そして日本プロレス旗揚げを目指す力道山が次に交渉に向かうのは、そんな激動の大正から昭和、戦前・戦後を大衆の夢と欲望を食い尽くしながら驀進し、読売新聞社を巨大メディアに急成長させ、戦後の混乱期のなか日本テレビを開局しさらなる拡張を図る怪物、正力松太郎。


この時点ではまだ単なる相撲崩れでしかなかった力道山が、戦後を代表する国民的ヒーローに登り詰めて行く過程を、この年日本で放送が開始されたテレビジョンというアイテムを抜きには語ることは出来ない。そして敗戦で焼け野原になってしまった日本にテレビジョンという新しいメディアを持ち込んだ正力松太郎という怪物の存在がなければ、現在までも続くプロレスの繁栄は恐らく無かっただろう。








「プロレスはテレビで普及し、テレビはプロレスで普及した」
(正力松太郎)



巨怪伝
戦後の混乱期のなか日本プロレスの旗揚げに際して力道山と政財界や裏社会の大物達との繋がりが次々と出て来るのだか、なかでもこの正力松太郎という男は図抜けて手ごわい人物である。警察官僚から新聞王となり、政治家となり、またメディア王ともテレビ王、イベント王ともなった。

この男の人生は綱渡りどころか、戦前は京成電車疑獄事件の贈賄幇助罪で市ヶ谷刑務所、戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンへと2度も塀の向こうに落ち、さらには読売新聞社の正面玄関前で右翼の構成員に日本刀で斬り付けられ生死の境をさ迷うという、殺人未遂事件にまで遭遇しているのだが、その度に更に大きな力を付け復権するという怪物ぶりを見せ付ける。これほど歴戦を勝ち抜き、つねに親玉であり続けた人物は他にいない。


正力の活動のうちの主要なアイテムだけをあげてみても、警視庁時代には早稲田事件や第一次共産党一斉検挙。米騒動、普選運動に伴う争議、東京市電ストの鎮圧。

警視庁退官後は、読売新聞の買収と社長就任、東京市長立候補、ビルマ新聞の発刊、日米野球の実施、衆議院議員初当選、初代プロ野球コミッショナーや関東レース倶楽部会長への就任、大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)設立、日本芸能連盟の開設、日本テレビ放送網の発足、プロレス興行とプロレス中継のテレビ導入、鳩山民主党入党、初代原子力委員長、東海村原研の開設、初代科学技術庁長官、よみうりランドの開園、日本武道館開館、よみうりカントリークラブ創設、国家公安委員長就任、Jリーグの前身の日本サッカーリーグの開設‥‥というふうに軒並みなのだ。正力が昭和の激動と波濤とともにあることは一目瞭然である。


これは余談だが、正力が初代原子力委員長に就任し原子力の平和利用という名目で日本に原子力発電を導入した際、正力の手足となって働いた若手議員の名を中曽根康弘といい、実は中曽根をことをあまり信用していなかった正力が裏切られないようにと、連絡係兼監視役として中曽根番に送り込んだのが渡邉恒雄という政治部の若手記者だったという話がある。

しかしミイラ取りがミイラに … と言うべきか? この先ふたりが二人三脚でどれだけの権力を手に入れて行ったのかは、いまさら説明するまでもないだろう。





ついでに話すと、ここから数年先の話になるのだが、プロレスで成功を収めた力道山が建てる地上6階、地下2階という高級マンションの先駆けであるリキアパートに中曽根は個人事務所を開いている。このことから力道山とも昵懇の間柄だったことが想像出来る。

このリキアパートというのは中曽根だけではなく、最上階には力道山の自宅があり、他にも力道山が顧問を務める在日韓国人系の暴力団・東声会が事務所を構え、プロレスラー、政治家、ヤクザがひとつ屋根の下に身を寄せあうという、力道山の交友関係をそのまま形にした魔窟のような建物だったようだ。





また話が横道に逸れてしまい一向に進まないので時代を戻そう。


前回のラストでも少し触れたが、日本テレビが放送を開始する半年前にNHKは放送を開始しているのだが、その成績は散々たるものだった。ひと月200円の受信料を徴収してNHKが放送を開始した時、その受信契約数は866件にしか過ぎず、ひと月わずか17万3200円の収入しかなかった。これは日本テレビが放送を開始した時点でも大して変わらず、全国の普及台数は2000台足らずに過ぎない。

放送開始直後のテレビ受像機は大変高価な代物で、本放送前年に発売された松下電器製のテレビ第一号機(17インチ白黒)の価格は29万円。当時の高校卒・国家公務員の初任給が5400円という時代なので月給の54倍。2015年の国家公務員一般職(高卒)初任給が14万1000円ということを考慮し現在の紙幣価値に換算すると、テレビ1台の値段が約760万円という高級外車並の値段だったと考えれば、この遅々たる普及率は当然のことだろう。

このような状況でもNHKがテレビ放送に踏み切らなければならなかった背景には正力の影響があった。


当初NHKは、戦後の焼け野原から復興中の日本にはまだテレビ放送の導入は時期尚早とし、アメリカでカラーテレビの放送が開始され普及する頃合いを見計らってから、日本でのテレビ放送事業を開始しようと目論んでいた。しかし戦後間もなく正力がテレビ放送の免許を取得し、ゴリ押しでテレビ放送事業に参入して来たことで事態は一変する。

国営放送プライドから民間企業に後れを取ってはならんとの大号令のもと、無理矢理計画を数年前倒して開局することになったのだが、そもそもテレビの受信機自体が普及しないのだから、ビジネスとして成立するはずも無く、NHKは月の受信料収入がテレビの受信機1台分にも満たないという最悪のスタートを切ることとなってしまった。


このような状況では、例えNHKが長州力をド真ん中に立たせて、力尽くで受信料を徴収しようとキャンペーンを張ったとしてもどうすることも出来ないだろう。

「NHKの受信契約はお済みですか?  なに?  まだだって?  お前の新生活、いいスタート、キレてないですよ!?   はやく『受信料長州力』で、アレしなきゃダメだ!コラ!」



しかし面白いことに、そんな状況のなかでも日本テレビの営業成績は開局当初から順調だった。開局1ヶ月目の収入は3200万円にのぼり、その後も月平均3000万円という高収益が堅持され、NHKの苦戦を尻目に日本テレビは開局7ヶ月で経営を黒字に乗せる。これをビジネスモデルにその後の民放各社の参入に繋がるのだが、1台1台のから受信料を徴収することをあてにして始めたNHKに対して、日本テレビは始めから台数は無視して視聴者の数を勘案した広告収入をあてにスタートを切った。

テレビの台数ではなく、テレビの視聴者をターゲットにする。視聴者の裾野が広がれば、自ずと提供スポンサーが集まり、広告収入は上昇する。これこそ正力の放つ官製のNHKには絶対に真似の出来ないコペルニクス的発想だったのが、それを可能にさせたのが街頭テレビの存在だった。



正力社長の脳裏にひらめいた “街頭テレビ” の着想は見事にヒットした。テレビの人気は、この街頭テレビによって爆発し、頂点に達した。
(日テレ社史『大衆とともに二十五年』)


この時正力は、本放送がはじまる10日前から関東一円のデパートや駅、公園など、とにかく人の集まりそうな場所に278台の街頭テレビを設置させた。

まだ全国でも2000台足らずしかテレビ受信機が普及していない時代に、その1割強に当たる台数を無料で視聴出来る街頭テレビとして投入するという大博打であったが、テレビ受像機を販売する前に、「テレビが面白い!」という体験を先に提供するというこの作戦は見事に当たった。道行く人々は足を止め、人混みをぬうようにして街頭テレビに食いつき1台のテレビに群がるように集まった。

放送開始当初はプロ野球やボクシングなどが人気を集めたが、なんと言ってもその人気を爆発させたのは、大相撲出身の力道山と柔道の木村政彦コンビがアメリカのシャープ兄弟に立ち向かったタッグマッチだろう、この日東京・新橋駅前の街頭テレビには約2万もの人が詰めかけ …

この詳細に関しては、旗揚げ戦まで話が進んだところでもう少し丁寧に紹介することになると思うのだが、力道山はこのテレビジョンという正力が日本に持ち込んだ新たなメディアの電波に乗り、17インチという小さな箱の中で国民的ヒーローへの階段を駆け上がることになる。





時代が英雄を生み英雄が時代を生む
もし力道山が日本プロレスを旗揚げしたとき、NHKの計画通りまだテレビ放送が開始されていなかったとしたら、力道山は国民的ヒーローになり得たのだろうか?


もしテレビ放送が開始されたとき、力道山というヒーローが誕生しなかったとしたら、正力松太郎のテレビ放送事業はこれ程までの成功を収めることが出来たのだろうか?


冒頭にある正力の言葉通り、「プロレスはテレビで普及し、テレビはプロレスで普及した」のだ。


しかしここまで書いて、どうしても腑に落ちない点がひとつだけある。

これも前回のラストで少し触れているのだが、この男はテレビ放送の父プロ野球の父原子力発電の父と呼ばれ、当然ながらそれぞれの分野で要職に付くことはもちろん、俺のおかげでこれらのジャンルが日本に定着したと、恩着せがましく自ら語るほどの自己顕示欲の塊のような男だ。
(参照 巨人(21)tightrope ①お嬢)


テレビ放送とプロレスは完全に利害関係が一致し、中曽根康弘と渡邉恒雄のよう二人三脚で成長した関係であり、当然ここでも正力は、俺がプロレスを、力道山をここまで大きくしてやった!  と声高に主張するべきところなのだが、この男はどこかプロレスに関してだけは一線を引いているように見える。

日本プロレスの成功に伴い、正力と付き合いの深い自民党副総裁・大野伴睦や右翼の大物で政界の黒幕・児玉誉士夫などがプロレスのコミッショナーを歴任するなか、何故かこの男は一切このような要職に付くこともなく、プロレスの父を名乗ることもしていない。


この背景には力道山と正力松太郎の間に何かドス黒く、目には見えない深く大きな溝が存在するのでは?  と、訝しんでしまうのは私だけだろうか …