こんにちは、くろまるです。



 今日は、小学六年生の時、児相に保護された時の体験をお話しします。



 そもそも一時保護所というのは、児童相談所が保護対象とした子を一時的に保護する場所で、児童相談所に付設してます。対象は18歳未満の児童です。


 僕は2014年9月24日から11月29日の約2ヶ月間、児相の判断により、保護されました。

 きっかけは、母と口論になった際、首を絞められ、その時つけられた傷とアザが原因で、学校が通報したためです。


 場所によりますが、僕が保護された江東児童相談所、東京都児童相談センターに付設していた一時保護所は、男子、女子、未就学児で分かれていて、人数は、全員で20人〜30人程。中高生が多かった印象があります。
 入所前、母から離れられた安心感で落ち着いていましたが、一時保護所は想像を上回る過酷な環境でした。

僕の行った一時保護所にはルールが3つありました。

1つ目は、個人情報や保護された理由を教えてはいけない。
2つ目は男女での会話含め、接触をしてはいけない。
3つ目は無断に外に出る事。
 他にも、保護所によりますが、沢山のルールがありました。

 僕が入所したところは、個人情報の交換以前に、生徒との私語は禁止で、先生を通して伝える(◯◯さんのものが落ちてました。◯◯さんが体調悪そうです。など)食事中は男子生徒、幼児クラスの児童と同じ空間で食事をしますが、食事中は、指導員の厳しい声と、食器の音しか聞こえません。食事を残す、食器を持たずに食べる、猫背で食事をとる、足を組むなど、細かく先生に指導されます。

 頭髪も厳しく、女子は前髪は眉より前髪が伸びていたらピンで止めるか、切るか。肩についたら、耳より下に一つに結わかなくてはならない、溢れる髪の毛はしっかりピンでまとめる事が規則で決まっています。
 衣服、小物には、一枚一枚番号が貼られていて、私物で許可されているのはメガネくらい。スマホの使用は一切できません。


 保護所の生活は、朝は6時30分に起きて掃除。先生は起こしに来てくれません。電気の灯り、周りの物音で自分で起きて布団をかたします。寝坊したら怒鳴り込みに個室に上がってきます。
 顔を洗い、髪を整えたら掃除。担当場所が決まっていて、終わり次第、洗濯された衣服が返されます。
 そのあと整列して食堂に行きます。食後部屋に戻り、1人ずつ点呼を取ってに歯磨き。午前中は学習、その間呼ばれた順に15分で入浴。大浴場で、先生の見張り付き。
トイレも1日何回利用したか記録をつけます。プライベートなんてありません。
 正午、昼食をとり、午後はビデオや創作活動、週2でマラソン。このマラソンも、指導員の厳しい声と、足音しか聞こえません。僕の話ですが、保護期間中、39℃の原因不明の高熱で1週間寝込んだのですが、病み上がりの10分マラソンをなんとか走り切ったのですが、先生に「いつもよりペースが遅い」と怒られ、プラス10週走らされました。
 おやつも出ます。食事を残した児童はおやつ無し。
その後、1時間の自由時間。読書や自由帳、自主学習、パズルなど個人でできる活動を行います。19時以降はテレビが見れます。ですが、寝そべりテレビを見ることや、胡座(あぐら)で座ること、壁に寄りかかって見ることは許されません。21時就寝。

保護期間中の生活は、とても規則的で、"決まったことを決まった時間にやる"だけの生活でした。


 家庭で安心して生活ができない、帰れる家がない、犯罪を犯した、巻き込まれたなど、必ず何かしらの事情がある児童が集まる場なので、養護施設と同じように、学校に行ける、職員や所内もアットホームな雰囲気で溢れている。そんな印象を持っていた僕にとって思いもしなかったその環境は、まさに生き地獄でした。


 退所は前日に言われると聞いたため、明日が見えない日々に僕は何を信じて生きればと不安に駆られる毎日でした。
 早くここから出たい。僕に行き場所なんかないけど、「こんなところにいたら気が狂ってしまう」とたくさん泣きました。就寝後は泣き疲れて寝る日々でした。ある日、泣いてることに指導員が気づき、「うるさい、周りの子に迷惑。」と言われ、指導員は寝室ではなく、暖房も付いてない冷え切ったトイレの前に僕の布団を持って行き、そこで寝るよう言いました。


 歯を磨いてると、指導員ではなく保健士さんがドアを開けたのを見た児童が、保健師の足元に縋るように「ここから出して」と泣き出しヒステリックになってるところを見たこともありました。それを見ても、もうその時の僕はここが異常だと思うのも難しいくらい追い込まれていました。


 保護期間中、保護者との面会の機会が設けられます。僕も一度、母との面談がありました。1ヶ月ぶりに見る母の顔は相変わらずでした。
 面談中は、担当の福祉士と心理士、僕と母がいました。
母は、僕に手を挙げていない、男を家に連れ込んでいない、育児放棄はしていないと否定を続けていましたが、「認めないなら家に帰りません。」と僕が言うと、全てを認めました。
 福祉士は母に、"もう二度と暴力をしない"と契約書?約束状的なものに書き留めて、その紙を僕に渡しました。
 福祉士は、今後何かあった時、同じ経験をした時これを裁判所に持っていけば、あなたは親元から離れられると僕に伝えました。
 出口まで福祉士と心理士で母を送った時、母は僕のところへ駆け寄って、僕の体を抱きしめて、「早く帰ってきてね」と泣きながら言い、なかなか離してくれませんでした。

 面談後は、作業をするかのように食事をとりました。
数日後、所要人数の関係で、一時保護所ではなく、同じ建物に付設していた心理治療室に異動しました。そこで2週間ほど過ごしました。そこはまるで修学旅行の延長線みたいな場所でした。

 貸し出しの衣服や小物選びの時、職員に思い切って、「あの箱から選びたい」と、男子用の衣服が入った箱を指さすと、職員は少し動揺していましたが、男子用の衣服の中から一緒に服を選んでくれました。すごく嬉しかった。

 違う環境での生活でしたが、慣れるのに時間はかからず、誰かと楽しく会話しながら暖かいご飯を食べる事、数人でテーブルゲームをして盛り上がる事、世間話で大笑いすること、学校や家ではできない全てが詰まっていました。
 僕はずっとここにいたい。学校や家には戻らず、ずっとここにいたいと強く思いましたが、そんな甘い願いはもちろん叶う事なく、退所を告げられました。その日の夜はいっぱい泣きました。学校や家に居場所がない僕にとって、初めてできた大切な居場所だったと実感しました。

 退所の日に、自分の手元に返ってきた衣服を着替える時寂しさと不安が込みあがりました。あの瞬間は一生忘れないと思います。


 結局僕は自宅に戻され、僕は自宅に帰りました。
母は児相の前でもう暴言に当たることは言わない、男を連れ込まない、手をあげないと約束しましたが、自宅に帰ると母は「一緒に住んでてもいい?」と男の話を持ち出しました。母は何も変わっていませんでした。強いて言うなら、僕には手を上げなくなった。それだけです。
 児相の面会はその後半年に及び、月一程度で行われましたが、自然と面会の機会もなくなっていきました。

退所日からまた、僕の過酷な生活が始まりました。





あとがき

ご拝読、ありがとうございました。
自分の実体験を通して、非当事者の方含め、児童相談所(主に一時保護所)の存在や環境を知る、考えるきっかけになってもらえたらとの想いがあり、ブログを描きました。これはあくまで僕のエピソードであり、一時保護所に入所した当事者によって、感じ方、経験は異なるとで一つの事例として捉えていただけたらと思います。
年齢や育ってきた環境に関わらず、これからの若者達が大人になれる、生きられる社会を作ってもらう一員になってもらえるよう、出来る限りの情報をお伝えしますので、今後ともぜひよろしくお願いします。