今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「『無意味なワガママは言ってこなかったつもり』婦人公論で持論を展開」と題して明菜さん本人の我儘な面が多かったのか、ディレクターとの間に齟齬が生まれ、更にはマネジャーや宣伝マンとギクシャクしたことが述べられました。また過去に喧嘩を売るつもりか暴力的な態度を示すつもりか、暴言を吐くように怒鳴ったこともあったことが明かされていました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・7月20日報道発表)


中森明菜にとって「全ての部分で分岐点となったのではないか」(音楽関係者)と言われるのがデビュー3年目である昭和59(1984)年だった。

つまり84年から85年にかけての動きがその後の活動に於いても大きなターニングポイントになったことは言うまでもない。そのための痛みもあった。制作現場でもディレクターの間で齟齬が生まれ、更にはマネジャーや宣伝マンともギクシャクし始めたのもこの頃からであった。

「スケジュールもタイトで日々追われていましたからね。彼女の心情を理解する以前に、状況を見ながら臨機応変に対応するだけで精一杯だったように思います。ですから現場のマネジャーは大変でしたよ」



そう振り返るのはワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)で明菜のプロモート担当であった田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)だ。

「楽曲だけでなく、衣装でも明菜はアイドル的なミニスカドレスに疑問を持ち始めていましたからね。とにかく、雑誌取材のスケジュールを入れても、いざ撮影になると編集担当者が『着てほしい』と用意してくる衣装と、明菜がイメージする衣装に大きな開きがあると言うか、アジャストしなくなってくる。勿論事前打ち合わせはしていますが、いざとなるとどうしても噛み合わなくなってしまう。最も明菜の衣装への考え方はハッキリしていて“読者はスタッフが選んだ衣装だとは思わない。(デビューする以前に)私が見続けていた『明星』や『平凡』など週刊誌のグラビアは、アイドルはみんな自分の好きな衣装を着ていると思っていた。読者はそう言った見方をする”と言う理屈な訳です。ただ彼女の場合、どちらかと言うと閃きを感情として表すのとが多かったかも知れませんね」

そんなこともあってか、スタッフへの指示も多かった。特にテレビ番組やステージの本番直前の楽屋からは明菜の怒鳴り声が響き渡っていたとも言われる。

「おそらく周囲は、明菜が我儘を言って怒鳴っていると思っていたでしょう。実際にそう言う部分がネガティブな行動として広まっていましたからね。ただ誤解してほしくはないのが、明菜が起こっていたのは大抵当初の打ち合わせと違っていた時です。要するに『打ち合わせ通りやってくれ』と言うことです。現場の状況で変わることなんてよくあることですから、全てが打ち合わせ通りに進みませんけど。とにかくストイックと言うか完璧主義でしたからね、彼女は…」

だが、そう言う見られ方も明菜自身は十二部に理解していたようだ。実際、この頃を振り返った『婦人公論』のインタビューでは「日々、闘いでした。いや、闘いどころの次元ではない」とした上で自らの我儘について持論を展開する。

先ず「特に十代の頃なんて、大の大人を相手にして入る訳ですから、何でこんな子供に、ましてや女に、こんなことを言われなくてはいけないのかって。先ず男性の方が拒否反応を起こしてしまう。いくら大人だって出来ない人は出来ないし、使えない人は使えない。そう言う時『何やってるんですか?』と言ってしまうから、生意気だって叩かれてしまうんですね」とキッパリ。

その一方で「無意味な我儘は言ってこなかったつもり」とし、当時のスタッフには「『取り敢えず、やってみて下さい』とお願いしたことは、後になってナットクシテ頂けている筈」とも言う。

ところが、やや自らには悲観した見方もしていて「割はあくまでプロデューサーの立場で、歌手・中森明菜のために言っているつもりなのに、単なる我儘だと思われてしまう」。



何はともあれ良くも悪くも周囲と意志疎通が図れなかったことが、明菜にとっては不幸なことだったのかも知れない

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)