今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「過去の“常識”とは比較できない特別さ スタッフも追いつけない感性」と題してそこいらの女性アイドル歌手とは比較できない明菜さん独特の特別な動きとそのスタンスが明かされました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・7月13日報道発表)


70~80年代の芸能界は大手プロダクションと大手レコード会社が協力して新人アイドルをデビューさせては年末に賞レースを競うのが、謂わば“常識化”していた。

古参の音楽関係者は「新人アイドルのデビューには巨額の投資をしてきた。発掘から育成、レッスンは勿論、宣伝費も…デビューだけではなく、その後も新曲やアルバムが発売される毎に一流ホテルを借り切って記者発表やパーティーを開くのは当たり前でした。金額の賭け方次第で注目度も変わった。今では考えられないですが、ネットのない時代です。限られたメディアの中で1人の新人を育てるのは大変だったのです」

その上で「1年目は投資、2年目で勝負を賭け、3年目から利益を上げていくことが理想のパターンでした。しかし中森明菜さんの場合、レコード会社はデビュー前から1億円を超える破格の宣伝費を注ぎ込み、デビュー半年後には利益に変わっていたと思いますね。振り替えるとメディアが彼女の人気の高まりと言うか、勢いに追いついていけなかったように思います」と語る。



当時の明菜を語る際、芸能関係者の多くが「それまでのパターンと比較はできない」と言う。所属レコード会社だったワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターだった田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)に聞いた。

「彼女の場合は特別だった気がします。デビュー3年目には、既にセルフプロモーションができていた程ですから。我々としては発言が不安定になり始めたように感じていたのかも知れません。要するに我々の方が彼女の感覚についていけなくなっていたのです。ところが、当時は制作現場は勿論、現場のマネジャー、宣伝や営業、そう言ったスタッフとの間に溝を生み始めていたのです。結局、我々はどうしても旧世代的なアイドル感を捨てきれずにいたのです。ところが、彼女はどんどん先に進んでいく。楽曲はアーティスティックなもの、衣装もアイドル的な、所謂ミニスカドレスに疑問を持ち始めていた訳ですから…元々彼女は論理的に言わないので、どうしても乖離してしまった部分があったのだと思いますね」



明菜のスタンスは明快だった。あるベテラン制作関係者こうみる。

「明菜は、一言で言ってしまえば完璧主義者。勿論、音楽制作には人其々の感覚の違いがあるので一概には言えないが、明菜の場合、レコーディングでは技術スタッフにまで口を挟んでいたそうです。なので『北ウイング』で作曲とアレンジをした林哲司さんがレコーディングへの立ち会いを希望するも、担当ディレクターが断っていたと言うエピソードを聞いて『やっぱりね』と思いました。とにかく明菜は、イメージで『こんな風に仕上げたい』とか言い出し、レコーディングではボーカルの上げ下げまで具体的に指示をしていたなんて話もありました。流石に現場もプロですから、スタッフも面目丸潰れだった筈ですよ。『生意気』と思うスタッフもいた筈ですし、明菜に助言するスタッフが誰一人いなかったとも聞いています。しかし林さんは『北ウイング』の仕上がりを聴いて、最終的には納得した訳ですよね。要するに明菜の制作能力は完璧だった訳です」



これも、それまでのパターンとは比較のできない中森明菜ならではの逸話なのかも知れない─

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)