今晩は、所沢市田中則行です。昨夜4日のNHK総合テレビ大河ドラマ『青天を衝け』第21話「篤太夫、遠き道へ の巻」のあらすじと今週の渋沢栄一を解説します。
[第21話あらすじ]
篤太夫(吉沢亮さん)はパリ万博に参加する慶喜(草彅剛さん)の弟、昭武(板垣李光人さん)の随行で仏国行きを打診され、その場で快諾する。一方、慶喜は第15代征夷大将軍に就任。慶喜は篤太夫を呼び出し、昭武の未来を託す。その後、横浜で初めて勘定奉行・小栗忠順(武田真治さん)と対面した篤太夫は、この仏国行きに秘められた重要な目的を知らされる。旅立の前、成一郎(高良健吾さん)と再会した篤太夫。二人は牢に囚われている長七郎(満島真之助さん)と久々に対面するが…



◆今週の渋沢栄一  (第21回)

◾パリ万博博覧会に慶喜の弟・民部公子(徳川昭武)が参加することになる。慶喜が鼻息荒い水戸侍達の調整役に渋沢が適任だと命じたことを側近の原市之進から伝えられ「参ります」と即答する

「上様が内々におっしゃられたのだ。『渋沢であれば公儀との間をトリモツのに適任ではないか』と。つまりお主に頼みたいのは一行の一員としてパリへ参ることだ」  (市之進)


「誠にたまげたことだい。某は数年前にも道につまり、その時にたまげた道を開いてくださったのが平岡様だった。それを今度は殿が開いてくださるとは…参ります!行かせてください!」  (篤太夫)


★孝明天皇の強い希望もあり、慶喜は第15代将軍の座に就きました



◾第15代将軍となった慶喜と対面し、弟の昭武を紹介される。久しぶりに会った慶喜と二人きりで話し、何れ将軍を昭武に継がせたいと言う意思を聞く


「あれほど(将軍に)おなりにならないでほしいと申しておりましたのに、こうして見ると存外にその座がお似合いなことが何とも言えぬ心持ちでございます」  (篤太夫)



「勝事ばかり知りて、負くることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ぼざるは過ぎたるよりまされし」  (篤太夫と慶喜)


「人の一生とはなんと摩訶不思議なことでございましょう。上様と大権現様のご遺調を唄えることが叶うとは」  (篤太夫)


◾仏国へ旅立つ前に長七郎に会うため訪ねた小石川代官所で、偶然現れた成一郎と久しぶりに再会。長七郎との面会の後、仏国へ行くことを報告する


「3年から5年は戻ってこられねぇ。お前には何としても会っておきたかった。長七郎もだ」  (篤太夫)


「ここは、生きたまんま死んでるみてぇだ。捨てるべきだった命を捨てることのできねぇまま、今宵もこうして月を思い浮かべるしかねぇ」  (長七郎)



◾千代の弟・平九郎を見立て養子にしたいこと、そして暫く千代から文の返事がないことを不安に思っていると話し、成一郎に世話を託す

「尾高の平九郎を見立て養子にできねぇかと思うのだが、どう思う?俺の養子になりゃ、幕臣として堂々とお千代やうたと共に江戸か京に出てくることができる」  (篤太夫)


「お千代から一度も返事がねぇ。お千代はあの器量よしだ。なっから女盛りでもある。そんな女を己の都合でなげぇ間放ったらかしにして。あぁ…もしや…もしやお千代は今頃…」  (篤太夫)


◾慶応3(1867)年1月11日、横浜港からアルフェー号へ乗り込み、仏国へと旅立つ







青天を衝け紀行
◆第21集 京都市山科区と東京都・千代田区北の丸


慶喜の弟・徳川昭武。凡そ3年間を京で過ごし、慶喜を支えました。

京都市山科区。昭武が滞在した水戸藩邸は、御所の西側を守る蛤御門の直ぐ近くにありました。しかし禁門の変の戦火に巻き込まれ、焼失してしまいます。
その後昭武は、本圀寺に逗留しました。当時300人余りの水戸藩士が駐在していた本圀寺。昭和に入り、現在の山科の地へ場所を移しました。
昭武は慶喜から将軍の名代としてパリ万博博覧会に派遣されること、そしてご三卿の一つである清水徳川家の相続を命じられます。



東京都・千代田区北の丸公園。清水徳川家の屋敷は現在の日本武道館の辺りにありました。
昭武は慶喜の期待を一身に背負い、栄一と共にパリへ旅立っていきました。





◆本圀寺  (京都市山科区)
交通アクセス:京都市営地下鉄東西線/京阪京津線・御陵駅下車 徒歩10分



◆旧江戸城 清水門  (千代田区北の丸公園)
交通アクセス:東京メトロ東西線・竹橋駅下車 徒歩10分





次回7月11日は第22話「篤太夫、パリへ の巻」が放映されます