今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「スタッフ感覚の相違が出始めて…“時代の空気感を体現し始めた”」と題してデビュー3年目のシングル曲『北ウイング』『サザン・ウインド』の連続ヒットで好評を得たと同時に、時代の空気感を敏感に嗅ぎ取る明菜さん本人とスタッフとの間で感覚の相違が出始めてきたと言う裏事情が明かされました。この時の明菜さんは賞レースの露出を増やすチャンスもあったそうです。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・6月29日報道発表)
デビュー3年目を迎えた明菜は『北ウイング』『サザン・ウインド』の連続ヒットで、その人気は揺るぎのないものとなっていた。一方で時代の空気感を敏感に嗅ぎ取る明菜とスタッフの間で感覚の相違が出始めてきたと言う。



「デビュー以来、明菜を担当してきたディレクターだった島田(雄三)さん」と意見が合わなくなってきたんです。ディレクターの考える企画がそのまま通らなくなり始めた…と言うのか」

と言うのは、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターだった田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)だ。

「楽曲にも変化が現れてきました。『北ウイング』『サザン・ウインド』とリゾート的な作品に『十戒』、そして『飾りじゃないのよ涙は』ですからね。明らかにデビュー当時…1982年から83年にかけての、ある意味でパターン化された作品とは異なり、多様性に満ちた作品へと変貌していきました。改めて振り返ると、明菜自身が楽曲制作に関わり出したことの証だと思います。とにかく作品だけではなく衣装にも、自身のセンスを反映させ始めたのが84年でした」

そう言った流れは当然、プロモーション展開でも頭を悩ませることになった。

「当時は今のようにネットのない時代でしたからね、新曲を発売したら販促展開で発売記念のイベントやテレビ出演、全国ラジオ・キャンペーンでのオンエア強化、アイドル誌を中心とした雑誌での露出展開など地道なプロモーションの積み重ねが重要になるのです。ラジオの場合、電話リクエストやベストテン番組が多かったので露出展開として重要でした。なので電話出演なども積極的でしたね。一方、レコード発売記念イベントなどは、もうデビュー時のような稼働はできませんから、ポスターやポップ広告、グッズを作る手法となっていました。ただ一番神経を使ったのは雑誌かも知れません。とにかくインタビューは基本的にNGで、撮影も状況次第では断ることが多かったですね。テレビもワイドショーなどは敵視していた部分があったので、プロモーションとして考えることはありませんでした。いずれにしても彼女の場合、限られた中で動かざるを得なかったように記憶しています」



ワーナーのプロモーション戦略として最も力を入れたのが「賞レース」だったと言われる。

「レコード会社として実績が乏しかったので、明菜を前面に出すことで業界内での“存在”や“評価”を高めたかったのでしょう。賞レースで明菜の露出が高まれば、必然的にシングルやアルバムのセールスに結び付くので一石二鳥なんです」と当時を知る音楽関係者は言うが、田中氏は明菜の心情について「周囲から“ポスト百恵”と言われた時もそうでしたが、山口百恵さんや松田聖子さんと比較されることに明菜自身が違和感を覚えていたことは確かです。基本的に自分は自分と言う意識が強かったですからね、彼女の場合。ですから賞レースについては口に出しませんでした。他のアイドルは分かりませんが、明菜自身は比較されたり、競争したりと言った意識は殆ど待ち合わせしていなかったと言うことです。おそらく賞レースを我々以上に冷静に見ていて、実績と受賞は別だと言うことを一番分かっていたんじゃないでしょうか。賞レースで我々が走り回る姿を見ながら、もしかしたら心の底では『賞レースはスタッフの頑張り』程度にしか思っていなかったかも知れませんね」

そして明菜にとっては、更に大きな変革期が訪れようとしていた─

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)