お早う御座います、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「4年間15作連続のシングル初登場1位 「頂点」を極めるも…生じ始めたスタッフとの溝」と題して昭和59年春にリリースした『サザン・ウインド』から4年間に渡りシングル曲15作品がオリコンシングルチャート首位を独走したことが述べられました。これらの記録によって明菜さんにとっての最大の誇りでした。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・6月22日報道発表)


1984(昭和59)年は冬にサラエボで、夏にはロサンゼルスで五輪選手権大会が開催された。アップル・コンピューター社からパソコン、マッキントッシュが発売されたのもこの年。宇宙開発でもスペースシャトル『ディスカバリー』の打ち上げに成功するなど、世界中が活気だっていた。



そんな中、デビュー3年目を向かえた中森明菜はまさに時代の寵児と言った様相を帯びていた。才能も開花し始め、音楽ばかりではなくファッションセンスにも自我が現れてきた。

「旧世代的アイドル感覚の捨て切れなかったスタッフとは徐々に真逆の方向に向かっているような感じが周囲にも分かりました」とは当時を知る音楽関係者。実際、製作面でもスタッフとの間で感覚の違いが出始めていた。

しかし『北ウイング』に続くシングル『サザン・ウインド』は、豊潤で気だるい避暑地的な香りの漂うイメージが明菜を支持するユーザーからは「聴いているだけで常夏を感じる」「ノリも良く爽快」「夏の歌をドライに歌い上げている」と評価が高まり、デビュー3年目直前の4時11日に発売されると、オリコンのシングルチャートで初登場1位を獲得。その後3週に渡ってトップを独走した。



ワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモート担当をしてきた田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)は言う。

「振り返ると明菜にとってこの年がターニングポイントとなった、もう一つの背景がチャートです。前の『トワイライト~~夕暮れ便り~』や『北ウイング』は最高位2位と言う結果でしたが、『サザン・ウインド』の初登場1位を契機に、その後4年間、88年に発売された『TATTOO』まで15作連続で初登場1位が続きました。明菜にはそんなシングルの記録が大きなインパクトになっていたことは確かです」

一方で明菜の情緒が不安定になり始めたのもこの時期からであった。

「アーティストは売れてくると精神的に不安になるものです。どこか孤独感のようなものが出てくるのだと思います」と田中氏は明菜の心情を推測する。実際、明菜自身もチャート1位を喜ぶ半面で「期待には応えたいと思うけど、次はどうなのだろうと不安になる」と吐露したこともあった。当然だが精神的なプレッシャーは大きかった筈だ。田中氏は更に言う。

「デビュー直後の、これからと言う時の不安と言うのは『次は…』とか『いつかは…』などと言った未来志向な意欲と言うか希望があるのですが、いざトップに立つと今度は売れなくなった時の不安やチャートが落ちてしまう時の恐怖のようなものが襲ってくるものなのです。これは頂点を極めたアーティストでなければ分からないことなのかも知れませんが…これまではスタッフが楽曲や衣装など方向性を決めて明菜像を作り上げてきたので、彼女とは感覚的な溝が生まれギクシャクし始めたのだと思います。明菜的は衣装については我々の考えていたアイドルチックなミニスカートに疑問があったことは確かです。特に思い出すのは雑誌取材でしたね。当然、取材依頼が殺到していましたが、いざ打ち合わせを始めると編集サイドが希望する『着てほしい衣装』と、本人のイメージする衣装とが違い過ぎて、結局取材をお断りするケースも多々ありました。基本的に明菜が納得することを前提としていたので、徐々にですがアイドル系の雑誌メディアとはアジャストしなくなっていったと言うのが正直なところです。明菜自身インタビューが苦手でしたので、取材スケジュールの組み方には苦労しましたね」





明菜とスタッフとの間には大きな試練が待ち受けていた

(芸能ジャーナル 渡邉裕二・談)