今日は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「聖子は100点だが明菜は120点 音楽業界のカリスマ・稲垣博司氏が振り返る80年代前半の歌謡界」と題して明菜さんのライバル視と言うべく聖子さんとの競合と両者の作品のクオリティーの違いが述べられました。80年代前半の歌謡界の象徴と誇りとなった聖子さんと明菜さんとの違いと競い、その真実は─

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・6月15日報道発表)




80年代前半の歌謡界は聖子が席巻していた。

80(昭和55)年に山口百恵さんが引退したことで、当時のCBSソニー(現在のソニーミュージックエンタテインメント)は「ポスト百恵」探しが急務であった。そこに彗星の如く現れたのが聖子さんであった。




当時、同社の常務取締役でオーディションを指揮しその後、ワーナーミュージックジャパン代表取締役会長も務めた稲垣博司氏(現 ミラクルバス主任研究員)は振り返る。

「社内では他の新人でとの声もあったのですが、私は彼女のボーカル、音色にひかれたんです。と言うのも彼女自身の声はあまり大きくなかったのですが、歌の音圧は凄かった。彼女のボーカルには勢いを感じましたね。で、可能性を信じて合格させたんです」

稲垣氏の思惑は見事に当たった。「とにかく作品に恵まれた。言葉の使い方も素晴らしかったし、曲もコード進行が斬新だった。小田裕一郎さんもいい作品を書いていましたからね。彼女は福岡の平尾音楽学校の出身だったので、本来なら平尾(昌晃)先生に書いて貰うのが筋ですが、スタッフからシンガーソングライターを起用すべきだとの意見が出たんです。その方向で楽曲制作をした訳ですが、当時としては斬新でした。そう考えると中森明菜さんも似たところがあったのだと思いますね」



その稲垣氏が明菜を意識し始めたのは『少女A』からであったが、『北ウイング』『サザン・ウインド』、そして『十戒』と言う作品の流れに聖子さんとの違いを強く感じるようになった。

「勿論作品のクオリティーは聖子も明菜も別格でしたね。ただ、あの作品を歌えるシンガーとしてみると聖子は100点でしたが明菜はそれ以上…120点でした。とにかく彼女のボーカルは突き抜けていました。その突き抜けた分は素晴らしいことでしょうが、実はその反動があって、歌うことで精神的な不安定さのようなものが出てきたように思います。つまり、彼女のメンタルな部分で犠牲になっているところが多分にあったのではないかと…」

その一方で「歌い方においては聖子に比べたら明菜さんの方が断トツですよ。何と言っても凄みがありました。ところが聖子のインパクトが強かったのは、やはりレコード会社のマーケティングの差だと思います。売り方ではソニーの方が上手かったように思います」

とは言いつつも、素材としての明菜を高く評価する。

「彼女にはどこか中島みゆきに近いものを感じていました。適切ではないのかも知れませんが、巫女さんと言うか、母性のシンボルのような…ですからできるだけ神秘性を増すような売り方があったように思いますね。或いは『北ウイング』や『サザン・ウインド』位から、もっとドラマに出せばよかったかも知れませんね。それが明菜さんの深みになっていったとも思います。全ての楽曲を聞き直した訳ではありませんが、聖子に比べたらインパクトのある、いい作品が多かったと思いますよ。最近、明菜さんの楽曲が聞き直されていると言いますよね。しかも聖子より明菜さんの方が好きと言う人も沢山いるようですから…とにかく、ここ10年を振り返っても、聖子はいっぱいいっぱいと言うかパワーを使いきってしまった感じがしますが、明菜さんは結果的に表舞台に出てきていませんからね。まだまだパワーが残っていると言うことですよ。どこか百恵さんにも共通したところも感じます。あくまで個人的な希望ですが、是非復活してほしいですよね」



聖子さんが「明」なら、明菜は「暗」だと言う声もある。その聖子さんと明菜が80年代を象徴するアイドルとなったのが84年だった─

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)